川崎市出身にして不世出のサックス奏者、坂本九の親戚でもある阿部薫。その妻であった鈴木いづみ。1949年に伊東市で生まれ、1986年、自宅で首吊り自殺をした小説家。
彼女の作品は、何故かわからないがヴィレッジ・ヴァンガードでよく見かけていた。『阿部薫1949〜1978』を出版した文遊社が『鈴木いづみ1949〜1986』、さらには『鈴木いづみコレクション』を刊行していて、ぼくはあちらこちらのヴィレヴァンで立ち読みしていたのだ(でも、二子玉川で見かけた記憶がない)。
ぼくが阿部薫の残した録音をいくつか聞いていたせいかもしれないが、鈴木いづみの作品のうち、五木寛之が特に絶賛していた「いつだってティータイム」の序奏は、何年経とうが忘れられない。阿部薫の死を予想していたかのような文章である。
「速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。細く長くか太く短くか、いずれにしても使い切ってしまえば死ぬよりほかにない。どのくらいのはやさで生きるか?」
残念ながら、この緊張感が「いつだってティータイム」では続かない。他のエッセイや小説を立ち読みしても、この短文だけが浮き上がってしまい、買う気にはなれなかった。引用した文は、彼女の作品の中で、あまりに鋭利すぎる。或る意味ではリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラかく語りき(Also sprach Zarathustra)」とも似ている。
いや、鈴木いづみに限定する必要はない。人生をこれだけの短さで表現できる人が、他にどれだけ存在するのだろうか。
それなのに、今月1日、青葉台で『鈴木いづみプレミアム・コレクション』を購入した。この、わずか2行の序奏のために、10年前から知っていた本を、迷った上で購入した。
彼女が阿部薫の先行きを何処まで予感していたかはわからない。阿部と同じ年にこの世を去った間章のほうが、終末を的確に見通していたのかもしれない。それはともあれ、短い結婚生活、そして離婚してからも何故か阿部薫と同居していたらしい鈴木いづみは、どこかで阿部の、そして自らの終末を目にしていたのかもしれない。そうであるとすれば、人生の速度についての指摘は彼女自身に対するものであったとも考えられる。
阿部薫に限らず、ジャズなどの音楽家には短命な者が多い。ぼくが「いつだってティータイム」の序奏を読む度に思い出すのは、まるで演奏スタイルが異なるけれども、ジャコ・パストリアスである。彼の伝記の作者、そして訳者が「いつだってティータイム」を知っていたとは思えないが、仮に知っていたら、伝記の冒頭は鈴木いづみの輝かしきイントロダクションで冒頭を飾るか、コーダで引用してしっかりと決めたことであろう。
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