ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

人知れず、世田谷区東玉川2丁目に

2024年03月10日 00時00分00秒 | まち歩き

 今から20年ほど前のこと。或る本を読んでいたら、世田谷区東玉川2丁目に、廃駅の跡が残されているという話が書かれていました。私が全く知らない場所でもないので、一度は見に行こうと思っていました。場所も或る程度の見当は付いています。しかし、車で行くことは楽であっても、その場所に停めることはできません。

 ようやく、この辺りを歩く機会に恵まれました。そこで、廃駅の跡を探します。知る人ぞ知る、と記すというより知名度が高いというべきでしょうか。Googleの地図でも検索することができます。環状8号線の近くで、田園調布駅の北側で東急東横線および東急目黒線の上を通り、少し歩くと左側に一方通行の道が分岐します。中原街道への近道で石川台駅のほうに抜けられる道です。その道を少し歩くと、あまり目立たない石碑があります。

 この石碑こそ、廃駅の跡です。というより、これくらいしか駅が存在していたことを示すものはありません。石碑には「新奥沢駅跡」と記されています。

 東横線および目黒線からは少し離れていますし、両線に新奥沢駅があったという事実は聞いたこともありません。石碑から北東のほうに目黒線の奥沢駅がありますが、新奥沢駅跡とは何の関係もないようです。

 石碑のそばに何の説明板もなく、いつ、誰がこの地に設置したのかも全く書かれていないくらいなのでわかりにくいのですが、実は、この「新奥沢駅跡」こそ、悲劇の池上電気鉄道新奥沢線の終点、新奥沢駅があった場所なのです。

 新奥沢線は、現在の東急池上線を建設した池上電気鉄道が1928年に開業させた路線です。起点は雪ヶ谷駅(1933年に調布大塚駅と統合されて移設され、後に現在の雪が谷大塚駅となる)で、当初は国分寺方面までの路線として計画されました。そこで、暫定的に新奥沢駅までのわずか1.5キロメートル足らずの路線として開業しました。途中、田園調布学園の近くに諏訪分駅が設けられており、当初は複線だったという話もありますが、すぐに単線化されました。

 池上電気鉄道は、現在の目黒線および東急多摩川線を建設した目黒蒲田電鉄と競合関係にありました。おそらく、新奥沢線は目黒蒲田電鉄の牙城を切り崩すための先鋒と考えられていたのではないでしょうか。しかし、本線たる池上線を建設する段階で起点および終点を変更する、開業時に電車が間に合わないということで駿遠電気(静岡鉄道の前身)から電車を借りる、五反田駅から白金方面への延長を計画して五反田駅を山手線の上に作ったはよいが計画を中止するなど、迷走していたような池上電気鉄道です。新奥沢線を建設しても、国分寺方面にまで路線を伸ばすことは無理な話でした(そもそも、本当に国分寺方面に路線を建設するつもりであったのでしょうか)。奥沢には既に目黒蒲田電鉄の目蒲線が通っていますし、もう少し足を伸ばせばやはり目黒蒲田電鉄が建設した二子玉川線(現在の大井町線の自由が丘駅から二子玉川駅まで)が建設中でした(1929年に開通)。

 二子玉川線の建設には玉川全円耕地整理組合も関係していたようです。二子玉川線の建設、さらに尾山台駅周辺の歴史を紐解くと、必ず玉川全円耕地整理組合が登場します。それだけ重要な存在であった訳で、その組合と目黒蒲田電鉄との間に深い関係があった訳です。もとより、目黒蒲田電鉄の総帥、五島慶太の手腕と才覚を忘れてはなりません。

 それに対し、池上電気鉄道にはそのようなものがありません。むしろ、新奥沢線を延伸するならば、玉川全円耕地整理組合が進めていた耕地整理事業や土地区画事業の障害になりかねなかったでしょう。仮に新奥沢線を新奥沢駅から国分寺方面に延伸すると(具体的にどのようなルートが想定されていたのかはわかりませんが)二子玉川線と並行してしまう可能性があったからです。目黒蒲田電鉄の地盤を侵食することにもなる訳ですから、何としても新奥沢線の延伸を阻止しなければならなかったのでした。

 結局、目黒蒲田電鉄は1934年の秋に池上電気鉄道を合併します。そして、1935年の秋に、目黒蒲田電鉄は新奥沢線を廃止します。営業していたのは僅か7年程です。そして、新奥沢線の痕跡は「新奥沢駅跡」の石碑くらいしか残されていません。

 石碑が立っている場所はマンションの敷地です。ここに駅があったことはすぐにわかるとしても、ただそれだけであって、他に何も残されていません。付近にはマンションが何軒かあり、近くの交差点まで奥沢駅からの商店街が伸びていますが、この商店街と新奥沢駅とは関係がなかったかもしれません。石碑は、歩いてようやく見つかるほどに目立たないものなので、すぐそばの道路を何度も車を走っていた私も気づけなかったのです。

 ここから石川台駅のほうに向かうと東玉川交差点で、奥沢駅から伸びてきた自由通りと交差します。東玉川交差点を直進すると奥沢小学校、さらに東玉川小学校の前を通って石川台駅の近くに出ます。同交差点を右折して自由通りを進むと雪が谷大塚駅の近くに出ます。

 おそらく、新奥沢線は環状8号線と自由通りとの間を通っていたのでしょう。今となっては完全な住宅街で、こんな所に電車が通っていたとは信じられないくらいですが、一方通行の道路が環状8号線と自由通りとに並行するように通っており、私が歩いてきた、田園調布学園中等部・高等部の真裏にある細い道が新奥沢線の跡のようです。単線であれば小型の電車くらいは走ることができる程度の幅です。もっとも、新奥沢線が廃止されてから宅地化がさらに進んだと考えられるので、廃線跡が残っていないのも当然のことでしょう。一説によると、諏訪分駅の跡は道路の形状でわかるそうですが、今回はその辺りを歩いていません。

 この石碑のすぐ右の道路を真っ直ぐ進むと環状8号線、田園調布中学校の真向かいに出ます。環状8号線が区境になっており、手前が世田谷区東玉川2丁目、奥が大田区田園調布2丁目です。

 今回、私は田園調布駅の東口、六間通りを歩いていて「新奥沢駅跡」の石碑の存在を思い出しました。古書店の田園りぶらりあが既に閉店しており、残念に思っていると、時間帯のためか、田園調布学園の生徒たちが帰宅のために駅に向かっていました。「そうだ、田園調布学園の近くに諏訪分駅があったらしいから、そこから北西に向かえば新奥沢駅の跡にたどり着ける!」と頭に浮かび、この20年ほどの思いを胸にして歩いたのでした。

 但し、田園調布駅からでは少し距離があります。六間通りを歩いたのでは遠回りでして、駅の改札口を出たら東横線および目黒線に沿うように北上して環状8号線に出て、歩道橋を使って道の反対側に出て、蒲田方面に歩きます。環状8号線が大きく右に曲がる箇所を左折し、一方通行の道路に入って奥沢小学校、東玉川小学校のほうに歩けば着きます。

 初めて行かれる方は、奥沢駅から歩くほうがよいでしょう(急行通過駅ですが)。同駅から自由通りを南下し、奥沢区民センターの手前を右に入ります。そこが奥沢親交会という商店街になっているので歩き続けます。お好み焼き屋およびライドシステムという会社が入っているビルが面している交差点を右に曲がると、環状8号線からの一方通行の道路です。すると、左側にコインランドリーが見えてきます。その隣のマンションの駐車場の所に石碑があります(交差点があるのでわかります)。

 前述のように、Googleの地図でも検索できますから、それを頼りにするほうがよいかもしれません。

 

 〔追記(2024年3月15日)〕

 或るルートで、石碑の設置者について情報を得ました。匿名の方でした。この場を借りて御礼を申し上げます。

 「新奥沢駅跡」の石碑は、玉川地域活動団体連絡協議会が1984年に設置したとのことです。ここの他に、中耕地駅跡、玉電用賀駅跡など、14年間をかけて173本を設置したというのですが、同協議会は既に解散しています。


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