今回は、「待合室」に第321回として2009年7月5日から14日まで掲載した記事の再掲載です。内容は、一部を修正しましたが、基本的に当時のままですので、御注意ください。
佐賀県唐津市の中心部を歩いています。城址に近くなってきました。
一見、唐津城の門か何かの遺構かと思われますが、実は手水場(手洗い場、つまりトイレ)です。 ただ、ここにもしかしたら城に関係する何かがあったかもしれません。建物自体は最近のもので、近づいてみればわかります。
城址に近くなると、やはり見所が多くなります。城址自体は丘の上にあるのですが、平地の部分にも城址に関係するものがあります。もっとも、近年に再建されたものなどのほうが多いようです。そもそも、日本にある城で、明治時代以降、とくに昭和になって再建されたものではないものは、姫路城、犬山城など、指を折って数えられるほどの箇所しかありません。
時の太鼓もそうです。江戸時代に時鐘があった場所に、20世紀になって建造されたものです。「佐賀県の地域づくり推進事業の補助を得て」と案内板に書かれていますので、唐津市が観光基盤の整備のために、さらには町おこしのために「唐津城址整備計画」を立て、それに基づいて建造したということなのでしょう。
時の太鼓は、上の写真のように、城内にある櫓のような建物になっています。私が訪れた時には16時を過ぎていましたので、時計の太鼓の音を聞くことも、人形の姿も見ることができなかったのですが、どのようなものなのでしょうか。もっとも、時間のせいなのか、別の理由もあるのか、この周囲を歩いている人はあまりいなかったのですが。
時の太鼓にある時計です。これ自体はあまり芸のないもので、時計の文字盤に書かれているのが算用数字でもローマ数字でもなく、日本古来の時の数え方である干支になっているだけです。時々、時計店 などで干支の文字盤の時計を見かけることもあります。
しかも、よく見ると「子」が通常の時計の6の部分にあります。 おそらく、12時を「午」としたためでしょう(正午というくらいですから)。しかし、真夜中の0時は「子」ですから、違和感もあります。市販されている干支の時計はどうなっているのでしょうか。
もっとも、古来、日本では一日を12の時間に区分していましたので、時計盤の表示にこだわる必要もないのでしょう。というより、現在の時計盤に合わせること自体が無理なのでしょう。現在のように一日を24時間として捉えるようになったのは明治時代になってからです。また、何の本で読んだのかを覚えていないのですが、日本社会が一般的に分および秒という単位を用いるようになったのは、鉄道網の発達と深い関係がある、という話がありました。
城と言えば堀です。二ノ門堀に着きました。もう少し歩けば、丘の上にある天守閣に着きます。
江戸時代には改封が度々行われました。唐津城も同様であり、藩主は度々交代します。一時期には水野忠邦が藩主であったこともあります。
現在の二ノ門堀の様子です。唐津城址へ向かうには奥のほうへ進むことになります。
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