ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

2001年12月23日、シーボルト居宅跡

2020年09月21日 00時00分00秒 | 旅行記

 私のホームページ「川崎高津公法研究室」では、2002年から2014年まで「待合室」というコーナーを設けていました。そこで、私が歩いた街などの写真と雑文を掲載していたのです。掲載分は原則として保存しているのですが、消失したデータ(主に写真)もあります。また、2014年掲載分が見当たりませんので、都営三田線途中下車シリーズの数回分が掲載できないままとなっています。

 さて、今回は、2002年10月12日から同月25日まで第24回として掲載した分の再掲載です。但し、写真1枚が消失しています。文章は掲載時のままとしましたので、長崎電気軌道の運賃など、現在とは異なる内容もあります。御注意ください。なお、写真撮影日は2001年12月23日です。

 

 第15回目「平和の意味を問う」でも1枚だけ掲載したシーボルト(Dr. Phillip Franz von Siebold, 1796-1866)の居宅跡を紹介します。言うまでもなく、江戸時代後期、長崎は出島にあったオランダ商館の医師として来日したドイツ人です。彼の功績は、何と言っても、日本の植物などを世界に紹介したことです。帰国時、禁制の日本地図を所持していたことによって国外退去処分を受けましたが、その後、もう一度来日しているとのことです。長崎滞在中に日本人女性と結婚しました。その時に生まれた娘は、明治期に女医となって活躍しました。なお、彼の名字ですが、シーボルトというのはオランダ語の読み方なのでしょうか。ドイツ語であればズィーボルトとなります。

 居宅跡は、小さな公園のようになっています。敷地面積もそれほど大きくありません。入った瞬間、建売の敷地とあまり変わらない広さではないかと思われました。今では、御覧のように、建物が全く残っていませんので、ここで彼がどのような生活をおくったのか、などのようなことは、ここに立っているだけでは推測がつきません。

 上の写真は、敷地に入って左側にある居宅跡です。右側には書斎跡があります(下の写真)。ここにどのような書物が並べられたのか、彼がどのような研究を進めていたのか、色々なことを考えていました。

 そして、1945年8月9日に長崎の街が一瞬にしてカタストロフに見舞われることになるとは、想像もしていなかったことでしょう。また、彼が勤務していた出島は、当時は人口の島でしたが、今では周囲も埋め立てられ、島ではなくなっています。

 長崎市内の観光地を回る時には、路面電車が一番便利です。100円均一ですし、500円で一日乗車券を手に入れれば、大体の所をまわることができます。長崎の場合、廃止された区間は一つもありません。下の写真は蛍茶屋電停です。ここから3系統(赤迫行き)に乗ると長崎駅や浦上方面に、5系統(石橋行き)に乗ると眼鏡橋、浜町、大浦天主堂方面に行けます。また、蛍茶屋からでもシーボルト記念館に行くことができますが、遠回りになります。

 

 ※第15回目「平和の意味を問う」:2002年8月2日から同月16日まで掲載。


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