一昨日(6月9日)、二子玉川ライズで、服部茂幸『新自由主義の帰結―なぜ世界経済は停滞するのか』を買いました。さすが岩波新書、というべき内容の本です。ここ10年くらい、様々な新書が出ていますが、あらゆる意味で読むに値するのは、第一に岩波新書、その次に講談社現代新書、中公新書、そして比較的最近のものではちくま新書です。但し、内容のバラツキが少なく、高度で、それでいて平易なのが岩波新書なので、繰り返し読むに値するでしょう。ジャンルにもよりますが、圧倒的に岩波新書に名著が多いのもうなづけます。
服部教授のこの著作は、小型ではありますが内容が非常に濃く、今のアベノミクスの是非を考えるに際しても、この本ほど示唆に富むものはないと思います。とくに、45頁にある次の記述は、日本の政治家、官僚、経済界に、何かと浮かれる傾向が強く、しかも反省も責任感もうかがわれないだけに、無駄だとは思いますが読んで欲しい部分です。
「労働によって新たな財が生産されれば、社会は豊かになるが、株価や住宅価値がいくら上昇しても、新たな富が生み出されたわけではない。高い住宅を売って利益をあげるということは、高い住宅を買わされた人がいるということでもある。売り手の利益は買い手の損失によって相殺される。キャピタル・ゲインが関係するのは、富の創出ではなく、富の分配である。そのため、国民所得の統計の上ではキャピタル・ゲインは所得の中に含まれない。」
太字による強調は、服部教授ではなく、私によるものです。少し考えれば当たり前のことなのですが、世の中にはよくある話で、当たり前のことほど忘れられたりするものです。バブル経済は、労働によらずして、つまりは新たな富が生まれていないがために生ずる現象とも言えるでしょう。いくら「経済価値が増えた」としても、肝心要の食糧などが増える訳でもなければ、貨幣の価値が増す訳でもありません。物価が上昇するということは、貨幣の価値が下がることでもあります。実体経済がよくならないのにバブルで資産価値だけが増えるというのは、おかしな話でもあるのです。見かけだけが増えているのに、中身は減っているというようなものでしょう。
経済学の素人からすれば、経済学で需要ではなく、供給ばかりが重要視されることに対して、大いなる疑問が生じます。供給ばかり増やしても、需要が増えなければ、ただの供給過剰ですから、本来であれば全く(プラスの)意味は生じないはずです。逆を考えればすぐわかる話で、需要が増えているのに供給がそれに伴わない場合に、物の価値は高まるのです。英語のwantには欠乏の意味があるということを確認しておきましょう。ちなみに、この英単語は、元々、古ノルド語のvantaに由来しているそうで、意味は「欠けている」です。「欠けている」から「必要であり」、「欲しい」のです。満ち足りていれば「欠けている」ことはないのですから不必要であり、欲しくもないのです。
貨幣の供給量を増やし、貨幣を水浸しのようにすればよいと言われますが、そうしたところで他のものの需要が増える訳ではないので、結局、実体を伴わないまま、貨幣や金融にしか向かうところがありません。これでは簡単にバブルになってしまいます。泡は所詮泡であり、中身がありません。そのため、破裂すればそれでおしまいです。
服部氏の主張を突き詰めれば、結局、我々は、少なくとも経済に関して、何ら歴史に学ぶことなく、同じ失敗を繰り返しているということになります。残念ながら当たっているとしか言えません。早く、本当の意味で「この説は誤っている」と言えるようになりたいものですが、無理なのかな、という気もします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます