都内某所(神田神保町ではありません)にある古書店で、タイトルに書いた本を買いました。
これまで、斎藤貴男さんの本は、見つける度に買ってきました。しかし、この本のことは今まで知らず、タイトルが気になって買ったものです。
バブル経済期に大学の学部生時代を過ごし、大学の内外で乱痴気騒ぎが繰り返されていたような、またそういうことが好きそうな同年代が多そうであったことに、そして社会全体がJapan as No. 1という言葉に浮かれていたような状況に、いつも違和感を覚えていました。
斎藤さんは、本の随所に、バブル経済期以降の精神の荒廃を書かれています。たとえば、
「要するにバブルの時代、何でもかんでも膨れ上がって、能力というより気概もなければ資格もない人間が、やたらでかい権利を得てしまった。それがエリート面をしている。ダメになったあとでも辞めない。おしなべてふつうの人も含めて、今、エスタブリッシュメントが言うところの公共心みたいなものが確かになくなった。それが逆手にとられて、新自由主義者たちに都合のいい文脈で公共心だの市民権だのといった立派な言葉が使われちゃってるのが現実です。」(18頁。佐高信さんとの「緊急討論」での斎藤さんの発言)
「あらゆる意味で、バブルはこの国をつくづく駄目にしてくれた。政府や金融機関経営者の責任は改めて指摘するまでもないが、個人事業主である私に言わせれば、大多数のサラリーマンもまた、本来なら無傷で済まされるべきではないと思っている。
あの時期、彼らは一個の人間としての価値判断を完全に放棄していた。人並み以上の教育を受けたはずの人々が、自分自身で物事の善悪を見分ける努力もせず、ただ、上に命じられるままに、ヤクザを使って地上げを行い、人為的に株価を吊り上げて、恥じることがなかった。総労働人口の八割以上を給与所得者が占めるこの国の社会は、常に彼らの行為の集積なのだ。」(245頁)
「宮沢喜一氏以前の総理大臣にしろ、たとえ二世議員ではなくても、名門一族の出身者ぞろいであることに変わりはない。機会の均等など初めから存在しなかった。ただし平等を謳う戦後民主主義が、それはよくないことだと教えていたから、少し前まで、二世たちの多くは逆に自分たちの出自を隠したがったにすぎない。
結果として、現実は大衆の目から遮られた。差別をめぐるさまざまな問題が広範な理解を得られなかった大きな原因も、大衆の無自覚に求めることができる。冒頭から繰り返し述べてきた近年の傾向は、したがって戦後民主主義が衰退し機会均等の建前が失われたことと表裏一体の関係にある。
引き金はここでもバブル経済だった。」(259頁)
これ以上の引用はやめておきますが、同時代に生きた者として、第一に感覚的に理解できます。これは悪い意味ではありません。感覚的に理解できて、それから論理的に検討する意味が出てくるのです。1990年代後半から所得格差の拡大が指摘されるようになり、最近では格差社会という言葉が完全に市民権を得ていますが、斎藤さんが259頁で述べられているように、バブル経済期も、いや、それ以前も日本は格差社会でした。川崎市に生まれ育った私は、サラリーマンの間における格差を、嫌というほど見ています。それだけに、斎藤さんの指摘を妥当と思うのです。
補足的に、いや蛇足的に記しますと、私は単純に、給与所得という、或る意味ですぐに目に見える金額の格差だけを言うのは誤っていると考えています。企業が用意する福利厚生面の差、退職金の差、年金の差などにも目を向けています。大企業と中小企業とでは、これらに、あまりに大きな格差があります。それは壁とも断崖とも表現できます。だから、消費税論者の言う生涯所得論は嘘であると、直感的に理解できるのです。
斎藤さんは消費税増税反対論者です。おそらく、私が上に記したことなど、綿密な取材を通じて痛いほどよく理解されているはずです。
そういえば、私がまだ大分大学に勤務している時のこと、当時は財務省に勤められていた村尾信尚さんが呼びかけた市民団体の最初の集会が、永田町で行われました。その集会に斎藤さんが来られており、少しばかりお話をし、名刺もいただきました。私は覚えているのですが、斎藤さんはお忘れになっているでしょうか。
そんなことはさておき、『バブルの復讐―精神の瓦礫―』の一読をお勧めします。バブル経済期を生き、当時の風潮を苦々しく思っておられた方は、共感しうるはずです。
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