ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

春の多摩川、兵庫島 その3

2015年04月11日 00時17分52秒 | まち歩き

この冬も非常に寒かったのですが、3月下旬になってから暖かくなりました。4月に入ってからも続くと思いきや、8日には東京でも降雪を観測するほどの寒さとなりました。

そのような中で、今回も兵庫島を取り上げます。

 兵庫島には若山牧水(1885~1928)の歌碑があります。写真をクリックして拡大していただければおわかりになると思いますが、「多摩川の 砂にたんぽぽ 咲くころは われにもおもふ 人のあれかし」という短歌が彫られています。1988年に建立されたもので、2012年に修復されたとのことです。

 すぐそばに説明板も置かれています。牧水は、1904年に早稲田大学に入学したのですが、その年に結核に罹患し、二子玉川小学校の北、丸子川にかかる治大夫橋(じだいゆうはし)の近くで療養生活を送りました。およそ一ヶ月間のみであったとのことです。

 手前の茂みと奥のマンション群れとが奇妙な対照を形作っていますが、ここが兵庫島公園の妙味かもしれません。撮影日には見かけなかったのですが、バードウォッチングには最適の場所であるのか、望遠レンズを取り付けた一眼レフカメラを構えて撮影する人々もいます。私も、CANON EOS Kiss X5を購入して間もなく、ここを訪れ、セットについていた望遠レンズで撮影しました。もっとも、本式に撮影するには天体望遠鏡と見間違えるような大きな望遠レンズを付けたりするのですが、そのような物は持っていませんので(カメラ本体よりはるかに高額です)、55-250mmのレンズを使いました。

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おしらせです(2015年4月10日)

2015年04月10日 18時11分31秒 | 本と雑誌

 管理人の権限を利用して、お知らせです。

 4月10日付で、TKCローライブラリーの「新・判例解説Watch」に、私が担当した「同族会社に対する上場株式の高額譲渡による利得が一時所得と判断された事例」(租税法No.117。文献番号 z18817009-00-131171197)が掲載されました。これは、東京高等裁判所平成26年5月19日判決の解説です。

 御一読をいただければ幸いです。

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スライドをアップしました

2015年04月09日 21時46分43秒 | 受験・学校

 今日の大東文化大学での講義で使用したスライドと、明日の国学院大学でのスライドを、既に私のサイトでアップしております(http://kraft.cside3.jp/slide2015.htm)。ご利用いただければ幸いです。

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春の多摩川、兵庫島 その2

2015年04月08日 22時09分15秒 | まち歩き

前回に引き続き、二子玉川駅の近くにある兵庫島です。夏には世田谷区花火大会の会場ともなります。

 兵庫島という名称ではありますが、現在は二子玉川緑地・多摩川二子橋公園と陸続きになっています。奥の茂みの辺りはバードウォッチングに最適の場所らしく、時折、望遠レンズを取り付けた一眼レフカメラを構える人々を見かけます。 

 兵庫島から二子玉川駅を眺めます。手前(左側)には富士観会館がありましたが、現在は高層マンションになっています。駅の向こう側には二子玉川ライズが見えます。2011年3月19日にショッピングセンターがオープンしてからというもの(当初は12日の予定でしたが、東日本大震災の影響で一週間延びました)、私も何かとよく寄るようになりました。今月、109シネマズ、アトリオデューエなどがオープンし、完成となります。

 一方で、再開発より前の、どちらかと言えば鄙びたような二子玉川駅東口が懐かしく思われることもあります。

多摩川ドナウ川友好河川記念碑(1986年10月1日)です。

 写真は兵庫島公園の案内図です。

 この島の名前ですが、世田谷区が設置している案内板によれば、次の通りです。

 時は正平13年、西暦に直せば1358年、新田義貞の子である義興(よしおき)は足利基氏を討ち、従者13人とともに上野国、つまりは今の群馬県から兵を進めました。目的は新田家再興です。彼らは多摩川にたどり着き、稲城矢口の渡しで船に乗ります。ところが、この船はただの渡し船ではなかったのでした。渡し守は、船底の栓を抜いて逃げ去りました。これでは船が沈んでしまいますが、同時に両岸から敵の軍勢が矢を射かけました。渡し船は最初から敵の策略であった訳です。義興らは身動きがとれません。そこで義興は自害します。従者たちの中に由良兵庫助という人物がおり、彼は敵と戦った末に殺され、遺体が多摩川の中州である島に流れ着きました。それこそが今の兵庫島であった、というのです。

 ここで問題なのが、矢口の渡しの場所です。いくつかの説があり、よくわかっていないのです。

 稲城市には矢野口(やのくち)という地名があり、現在は多摩川原橋も架けられています。しかも中州もあります。ここからどこかまで流されて、二子の渡しの近くにたどり着いたのでしょうか。

 一方、大田区には矢口渡という駅があります。所在地は大田区多摩川になりますが、その隣に武蔵新田(むさしにった)駅があり、所在地が大田区矢口です。ここには駅名の由来ともなっている新田神社があり、祀られているのが新田義興です。彼がこの地で謀殺されたということで、神社が建てられたというのです。今の大田区の地域に稲城という場所があったのかどうかわかりませんが、同一氏名の人間が二人いたのであればともあれ、一人しかいないのであれば、彼は稲城で自害したのか大田区矢口で謀殺されたのか、わからなくなります。大田区のほうで謀殺されたとすれば、由良兵庫助の遺体が今の兵庫島に流されたのではなく、彼が上流に向かって逃げ、島で倒れて死んだ、ということにならざるをえません(但し、14世紀の多摩川がどのような川であったのかを検証する必要もあります。何せ、暴れ川だったという伝説には尽きません)。

 兵庫島の由来について他の説がないのか、よくわからないのですが、最も有力な説が由良兵庫助に由来するということに変わりはないようです。 

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春の多摩川、兵庫島 その1

2015年04月07日 20時50分37秒 | まち歩き

或る晴天の暖かい日に、東京都世田谷区、二子玉川駅の近くにある兵庫島へ行きました。

二子橋のすぐそばで多摩川と野川(多摩川の支流)が合流します。そこに兵庫島があります。現在は公園となっており、中に池があります。

 二子橋です。ちょうど大井町線の電車が渡ってきました。その手前に道路橋があります。1966年までは田園都市線(当時は大井町~溝の口)の電車もその橋を渡っていました。橋の部分だけが単線だったようです。同年に溝の口~長津田が延長開業し、電車は現在の鉄道専用橋を渡るようになりました。

こちらは国道246号の新二子橋です。1974年に竣工していますが、実際に供用が開始されたのは1978年でした。向こう岸は川崎市高津区です。

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溝口緑地のメタセコイア

2015年04月06日 21時13分49秒 | まち歩き

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信州大学の入学式 学長の「入学式あいさつ」に同感します

2015年04月05日 18時01分15秒 | 受験・学校

 朝日新聞のサイトに、今日の17時3分付で「『スマホやめるか、大学やめるか』 信州大入学式で学長」という記事が掲載されています(http://digital.asahi.com/articles/ASH44578MH44UOOB007.html?iref=comtop_6_06)。興味深いので読んでみました。また、16時44分付で「信州大学・山沢清人学長の入学式あいさつ全文」という記事も掲載されています(http://digital.asahi.com/articles/ASH455FQGH45UEHF004.html)。

 山沢学長が何を専攻されている方かを存じ上げませんが、読みますと鋭いところを突いているし、「その通り」と同感します。まずは次の部分です。

 「ところで、新入生の皆様は、本日、大学受験から解き放たれたことになりましたが、もう勉強はしなくて良いなどとは考えていませんよね。」

 昨日、電車の中で「大学に入ったらどの程度まで遊べるのか」などとほざいている連中がいました。大学(学部)の新入生なのか高校生なのかはわかりませんが、少なくとも理系の学部の新入生ではないようです。頭の中には遊びとアルバイトしかないようで、言葉を傍らで聞きながら「何を考えているんだ?」と言いたくなりました。

 学長の「入学式あいさつ」に戻ります。

 「創造性を育てるうえで、特に、心がけなければならないことは、時間的、心理的な『ゆとり』を持つこと、ものごとにとらわれ過ぎないこと、豊か過ぎないこと、飽食でないことなどが挙げられます。

 自らで考えることにじっくり時間をかけること、そして時間的にも心理的にもゆったりとすることが最も大切となります。」

 いずれも非常に大事なことで、それだけにバランスを取るのが難しいのですが、物事に慣れすぎてはいけない、あふれる物などに浸かりすぎてはならないということは言えるでしょう。学長は、脳科学者のDavid Eaglemanを引用して、周囲の世界に見慣れてしまうと脳の情報摂取量(さらに力)が少なくなるという趣旨を述べています。

 そして、見出しに関わる部分です。ここは少し長めに引用します。

 「残念なことですが、昨今、この信州でもモノやサービスが溢れ始めました。その代表例は、携帯電話です。アニメやゲームなどいくらでも無為に時間を潰せる機会が増えています。スマホ依存症は知性、個性、独創性にとって毒以外の何物でもありません。スマホの『見慣れた世界』にいると、脳の取り込み情報は低下し、時間が速く過ぎ去ってしまいます。

 『スマホやめますか、それとも信大生やめますか』 スイッチを切って、本を読みましょう。友達と話をしましょう。そして、自分で考えることを習慣づけましょう。自分の持つ知識を総動員して、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性豊かな信大生を育てます。」

 少し前に流行ったゲーム脳の話ではなく(いまだにテレビなどで主張している人がいて、血液型占いと同じようにあまりにひどい非科学性に辟易します)、ツイッターだのソーシャルブックだのと、電車の中であろうが歩きながらであろうが、時も場所も構わずスマートフォンをいじっている人が多く、一種の生活習慣になっているので、このことを病的であると表現しているのです。学生などと接しているとわかるのですが、これらに没頭しているというより、これらのことしか考えていない、頭にないような人が多いのです。もっと記すならば、人数の多寡はともあれ、一定の範囲に接触が限定され、その結果として入ってくる情報量も少なくなるし、質も低下するでしょう。結局、狭く閉じられた世界に自らを投げ入れ、意図とは関係なく、その世界から出られなくなってしまいます。

 iPhone6を持っている私がツイッター、ソーシャルブック、ラインなどをやらない理由も、以上に記した点にあります。

 今の学生に限らず、多くの人に望みたいところが、信州大学学長の「入学式あいさつ」に表現されていました。

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再び、租税資料館の近くで(東京メトロ中野車両基地)

2015年04月05日 02時14分38秒 | 写真

 2015年3月27日22時15分33秒付で「租税資料館の近くで(東京メトロ中野車両基地)」を掲載しました。その4日後、3月31日に、再び租税資料館へ行ったので、その時に撮影した写真を載せておきます。

 方南町駅から方南通りを新宿方面に向かうと、租税資料館の少し手前、中野特別支援学校の近くに歩道橋があります。今回はこの歩道橋から撮影しています。

 銀座線の01系第35編成が停まっていました。1984年に営業運転を開始し、それまでの旧型車(吊り掛け駆動の車両もありました)を引退させるとともに、同線のイメージを刷新した01系は、1983年度から1997年度までの間に6両編成38本、計228両が製造されました。1985年のローレル賞受賞車でもあります。写真の第35編成は1992年度に製造されています。

 「租税資料館の近くで(東京メトロ中野車両基地)」においても記しましたが、01系は2016年度までに全編成が廃車となる予定です。勿論、既に廃車が始まっており、一部が2014年に熊本電気鉄道に譲渡され、長らく活躍した5000系(元東急初代5000系)の置き換え用として、2015年3月から運転を開始しました。もっとも、銀座線は第三軌条集電の直流600V、軌間1435mmであるのに対し、熊本電気鉄道は架線集電の600V、軌間1067mmであるため、西鉄筑紫工場で改造を受けています。

 これまで、地下鉄の車両が他社に譲渡された例はいくつか存在しており、銀座線や丸ノ内線で走った車両は日立電鉄(廃止)や銚子電気鉄道でも走っていました。いずれも架線集電のためにパンタグラフが増設される、などの改造を受けています。

 01系に代わる銀座線の主、1000系も停車していました。

 銀座線、丸ノ内線のいずれも、走行用のレールの外に設けられた第三軌条(電気が流れているレール)から、台車に取り付けられた集電靴を使って集電する方式を採用しています。この方式は、東京ではこの2線のみで、他には札幌市営地下鉄南北線、横浜市営地下鉄ブルーライン、名古屋市営地下鉄東山線、同名城線、同名港線、大阪市営地下鉄御堂筋線、同谷町線、同四つ橋線、同中央線、同千日前線、北大阪急行南北線、近鉄ゆめはんな線があります。直流600Vは東京と名古屋だけで、他は750Vです。ほとんどがそれぞれの都市で初期に開業した地下鉄路線です。

 銀座線と丸ノ内線は、ともに第三軌条集電の直流600V、軌間1435mmです。しかも、御存知の方も多いと思われますが、赤坂見附駅構内で両線の線路がつながっています。そのため、01系や1000系が丸ノ内線を走ることは可能です。しかし、車両の長さと幅が異なるため、02系が銀座線を走行することはできないようです。また、01系や1000系が丸ノ内線を走行すると言っても、それは回送運転の話であり、営業運転では無理でしょう。丸ノ内線の各駅に設置されているホームドアは02系に合わせられているからです。

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北陸の鉄道網を改めて眺めると

2015年04月04日 12時07分27秒 | 社会・経済

 今回は、本格的な検討などを行いません。ただの雑感という程度です。しかし、日本では明確な公共交通政策があるのかないのかわからないような状態が続いており、新幹線、高速道路など、それぞれの分野が独立しており、しかも何ら調整がなされないので「あれもこれも」という形になっています。

 3月14日、北陸新幹線の長野~金沢が開業しました。地元では歓迎ムードなども漂いますが、地域交通という観点からすると、在来線網が「ズタズタにされた」と評価してよいでしょう。今までも自動車社会の進展などで地域の公共交通機関は衰退している訳ですが、新幹線の開業でさらに加速し、大きな禍根を残すのではないかという懸念もあります。少なくとも、地元の通勤・通学客にとってはマイナス面ばかりが多くなっているでしょう。

 既に、北陸新幹線では最初の高崎~長野の開業(そのために当初は長野新幹線と呼ばれました)で在来線の細切れ状態が生じています。具体的には、新幹線開業前には高崎から長野、直江津を経由して新潟までの路線であった信越本線です。高崎~横川はJR東日本の信越本線、横川~軽井沢は完全に廃線(バス化)、軽井沢~篠ノ井はしなの鉄道(しなの鉄道線)、篠ノ井~長野~直江津~新潟はJR東日本の信越本線となりました。高崎~横川が信越本線を名乗り続ける意味が失われている訳です。

 今年3月14日、北陸新幹線が延長開業したことにより、信越本線はさらに分断状態に、ややこしくなりました。長野~妙高高原がしなの鉄道北しなの線、妙高高原~直江津がえちごトキメキ鉄道妙高はねうまラインに移管されたので、信越本線は高崎~横川、篠ノ井~長野、直江津~新潟の三つとなりました。一本の路線が七つに切られ、そのうちの一切れは完全に廃棄され、三切れが他人の手に渡ったのです。篠ノ井~長野は、事実上、篠ノ井線の延長のような存在となっていますから信越本線を名乗り続ける意味もなく、篠ノ井線に統合すればよいのではないかとも思えますし、直江津~新潟についても、信濃国を通っていないのですから信越本線を名乗り続ける必然性がありません。

 新幹線の開業により、並行在来線をJRから切り離すという政策は、1990年12月24日付の「整備新幹線着工等についての政府・与党申合わせ」、1996年12月25日の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」に基づくものです。その適用第一号が北陸新幹線の高崎~長野であり、信越本線が以上のような姿になった訳です。

 ややこしくなったのは、信越本線の分断状態だけではありません。北陸本線も細切れ状態に入りつつありますが、JRの路線網がよくわからないものになり、所々で孤立線というべき存在の路線(名鉄瀬戸線などを思い浮かべていただければよいでしょう)が生まれました。

 これは東北新幹線の延伸により、青森県で既に生じていました。まず、八戸~久慈の八戸線です。起点の八戸で東北新幹線に接続するとは言え、規格が全く異なりますから、車両の融通はできません。八戸で接続していた東北本線は青い森鉄道の路線になりましたし、終点の久慈で接続するのは三陸鉄道北リアス線ですから、JR東日本の在来線のみの路線図では孤立します。

 青森県にはもう一つの孤立線があります。野辺地から大湊までの大湊線です。こちらは東北新幹線とも接続していません。野辺地で接続するのは青い森鉄道ですから、JR東日本の路線網では完全な孤立線となります。

 また、厳密には孤立線と言えないのですが、JR東日本盛岡支社が管轄する路線で孤立状態となったのが、好摩~大館の花輪線です。ほとんどの列車が盛岡まで運転されるのですが、盛岡~好摩はIGRいわて銀河鉄道(いわて銀河線)ですので、運賃は合算されることになり、非常に高くなります。いっそうの鉄道離れを引き起こしたのではないでしょうか。

 今回の北陸新幹線延伸でも同じような事例が生まれました。県別に見ましょう。

 まずは長野県です。ここでは八戸線や大湊線のような孤立線は存在しませんが、花輪線と似たような状況になっているのが、豊野~越後川口の飯山線です。豊野~森宮野原が長野支社の管轄で、その途中に北陸新幹線と接続する飯山駅があります。飯山線の長野県側ではしなの鉄道北しなの線となった長野~豊野に乗り入れていますので、飯山線の途中駅から長野へ向かうには、これまでのようにJR東日本の運賃だけを払えばよいことにはならず、JR東日本としなの鉄道の運賃を合算するということになるのでしょう。とくに通学客には大きな痛手となりえます。

 新潟県では、八戸線型と花輪線型の混合のような孤立線があります。大糸線です。この在来線は、松本~南小谷(電化区間)がJR東日本、南小谷~糸魚川(非電化区間)がJR西日本で、JR全体の在来線網から完全に孤立してはいないものの、JR西日本の在来線網においては孤立します。糸魚川駅で北陸新幹線およびえちごトキメキ鉄道日本海ひすいラインに接続しますが、これは八戸線と同様の形です。

 ここで北陸本線について記しておかなければなりません。北陸新幹線の延伸開業までは米原~直江津の路線でした。延伸開業後、米原~金沢はJR西日本に残りましたが、金沢~倶利伽羅はIRいしかわ鉄道(IRいしかわ鉄道線)、倶利伽羅~市振があいの風とやま鉄道(あいの風とやま鉄道線)、市振~直江津がえちごトキメキ鉄道(日本海ひすいライン)に分割されました。

 さて、北陸新幹線の延伸により、富山県および石川県の鉄道事情が大きく変わりました。どちらの県にも、JRの在来線網で寸断、細切れ、孤立が発生しています。

 富山県では、まず、富山駅で北陸新幹線に接続する高山本線をあげることができます。この路線は大糸線と類似しており、岐阜~猪谷がJR東海、猪谷~富山がJR西日本です。このため、猪谷~富山がJR西日本の在来線としては孤立することとなります。いっそうのこと、岐阜~富山の全体をJR東海とするほうがわかりやすいくらいです。また、高山本線は地方交通線であり、一部があいの風とやま鉄道線となった北陸本線は幹線ですから、幹線がJR西日本から離れ、地方交通線がJR西日本に残るということになります。先にあげた大糸線も同様です。

 富山駅から少しばかり西へ移動します。高岡駅から、JR西日本の地方交通線が2本分岐します。能登半島の東側へ伸びる氷見線(高岡~氷見)と、北陸新幹線と接続する新高岡駅、さらに南の城端(じょうはな)まで伸びる城端線です。どちらも地方交通線で非電化線ですが、並行在来線ではないためにJR西日本に残りました。氷見線と城端線が高岡で接続しているために孤立しているとは言い難いのですが、JRの在来線網からは完全に寸断されています。 

 石川県では、津幡~和倉温泉の七尾線が大湊線と同様に完全な孤立路線となりました。七尾線の列車は北陸本線に乗り入れていましたが、これはIRいしかわ鉄道への乗り入れとして残されています。とは言え、津幡駅には北陸新幹線のホームも何もありませんから、JR西日本の路線網としては完全に孤立することに変わりはありません。

 また、七尾線は、北陸新幹線の延伸云々に(少なくとも直接的には)関係なく、かなり面倒な路線です。津幡~和倉温泉はJR西日本の路線ですが、七尾~和倉温泉はJR西日本が第一種鉄道事業者、のと鉄道が第二種鉄道事業者です。また、一般的にはのと鉄道線と扱われる和倉温泉~穴水は、実はJR西日本が第三種鉄道事業者、のと鉄道が第二種鉄道事業者です。つまり、同区間の線路などの施設はJR西日本によって保有されており、のと鉄道は施設を借りて列車を運行している訳です。2001年まで七尾線は津幡~輪島の路線でしたが、穴水~輪島が廃止されています。この廃止区間についても、JR西日本が第三種鉄道事業者、のと鉄道が第二種鉄道事業者でした。他方、2005年に廃止された能登線(穴水~蛸島)は、のと鉄道が第一種鉄道事業者として運営していました。七尾線が重荷になり、のと鉄道の経営が悪化したとも伝えられています。

 今後、北陸新幹線は福井県にも延伸する予定となっています。さらに近畿地方にも伸びるのでしょう。ただ、敦賀から先のルートがまだ決まっていないという話を聞きます。東海道新幹線と接続するのが米原なのか、京都なのか、新大阪なのか。途中、どの市町村を通過するのか。並行在来線としてJR西日本から他社線に転換されるのはどこなのか。決まっていない以上、工事着手のしようがない訳ですが、敦賀で止まってしまうのでは新幹線として中途半端に過ぎます。

 

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時々思うことですが

2015年04月04日 00時22分29秒 | 音楽

 ベートーヴェンの最高傑作は、交響曲第5番でも第9番でもなく、弦楽四重奏曲第14番作品131ではないでしょうか。

 第1楽章のフーガを聴く度に、これほど深遠で美しい音楽も滅多にないのではないか、と思うのです。

 その例外は、ベートーヴェンではなく、マーラーの交響曲第9番、とくに第4楽章(Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend)であろうと感じます。人生最後の瞬間を迎える際に聴きたいのです。

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