板橋
2007年06月09日 | 旅
赤羽線…といって、どれくらいの人がピンと来るだろうか。
現在埼京線と呼ばれている路線の、かつての名称だ。
いや、正式には今現在も、池袋-赤羽間を走る、
東日本旅客鉄道線の路線の正式名称だ。
私が生まれたころ、この駅には貨物駅があった。
黄色い電車の合間を縫って
DD13やDE10、EF65、EF15といった機関車がベンガラ色や黒の貨車を牽いて
右へ左へ走っていた。
現在、都市基盤整備公団のマンションが建っている場所には
何両もの貨車が待機していて
入れ替えの時間になると、旧中仙道の踏切は閉まったままになった。
それでも、渋滞なんか起こらない、のどかな時代だった。
ホームから見える日本食糧倉庫の引込み線の跡地には
いまでは保線車両が夜の出番を待っている。
北池袋駅の開かずの踏切「雲雀が谷踏切」を更に開かずの踏切にしていた
セメント会社の専用線も、今は夏草が生い茂る
更地になっている。
東上線も、下板橋と大山の間に貨物の駅があって
荷物電車や、貨物列車が走っていた。
貨物列車が発車するときに、機関車が鳴らす汽笛は
時計代わりだった。
いつしか電車は緑色にかわり、気が付けば銀色の電車が
お台場まで走るようになっていた。
剥がされずに残った錆びたレールだけが
いまでもあのころを記憶している
現在埼京線と呼ばれている路線の、かつての名称だ。
いや、正式には今現在も、池袋-赤羽間を走る、
東日本旅客鉄道線の路線の正式名称だ。
私が生まれたころ、この駅には貨物駅があった。
黄色い電車の合間を縫って
DD13やDE10、EF65、EF15といった機関車がベンガラ色や黒の貨車を牽いて
右へ左へ走っていた。
現在、都市基盤整備公団のマンションが建っている場所には
何両もの貨車が待機していて
入れ替えの時間になると、旧中仙道の踏切は閉まったままになった。
それでも、渋滞なんか起こらない、のどかな時代だった。
ホームから見える日本食糧倉庫の引込み線の跡地には
いまでは保線車両が夜の出番を待っている。
北池袋駅の開かずの踏切「雲雀が谷踏切」を更に開かずの踏切にしていた
セメント会社の専用線も、今は夏草が生い茂る
更地になっている。
東上線も、下板橋と大山の間に貨物の駅があって
荷物電車や、貨物列車が走っていた。
貨物列車が発車するときに、機関車が鳴らす汽笛は
時計代わりだった。
いつしか電車は緑色にかわり、気が付けば銀色の電車が
お台場まで走るようになっていた。
剥がされずに残った錆びたレールだけが
いまでもあのころを記憶している