江戸五色不動 目黄不動尊

2015年04月30日 | 
五色不動の最後は、目黄不動です。
この目黄、実はいくつか目黄不動尊を名乗る寺院が存在しています。
ここでは、一般に目黄不動として知られる二つの寺院を紹介します。

そもそも目黄不動尊と呼ばれた寺の元祖は浅草勝蔵院とされ
金龍山浅草寺の寺僧22箇院のひとつで、明治時代に廃寺になりました。
この寺に納められていた明暦不動が転訛して、「メキ」となったとも言われています。

当時の都市伝説や、寺が存在しなくなったことで
多くの「目黄不動」が生まれたとも言われています。

その中で、早いうちから目黄不動と呼ばれたものが
下谷三ノ輪の永久寺です。

(永久寺)

創建年代などは不詳ですが、当初は真言宗の寺院として創建され
後に日蓮宗に改められましたが、さらに天台宗に改まり
養光山金碑院永久寺として現在に至っています。
ここが「目黄不動」とされた詳しい経緯は、不明です。

また、江戸川区平井の牛宝(寳)山明王院最勝寺も、目黄不動として有名な
天台宗の寺院です。

(最勝寺)

元々は本所表町(現在の墨田区東駒形一丁目)にあり
貞観二(860)年、慈覚大師円仁が隅田川河畔に草創したものと伝えられています。
大正二(1912)年に、駒形橋架橋にともなう区画整理で
現在地に移転しました。
目黄不動尊は、最勝寺末寺の東榮寺にあったものが
東榮寺が廃寺になった際に遷されたものだそうです。
これも、目黄不動となった経緯の詳細は不明です。

(最勝寺の不動堂)
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江戸五色不動 目青不動尊

2015年04月29日 | 
五色不動の目青不動尊は、世田谷区の賑やかな中心地、
三軒茶屋の、しかもその駅前に堂を構えています。

(教學院)

天台宗の寺院で、竹園山最勝寺教学院(教學院)が正式な名前です。

元々は太田道灌以前に現在の皇居、江戸城紅葉山付近に創建され
その後、江戸城拡張に際し麹町へ移転、さらには青山に移り、
明治時代に現在の三軒茶屋の地(世田谷区太子堂)に移転してきました。

(東急世田谷線と教学院)

(三軒茶屋の由来のひとつ、田中屋)

目青不動尊と呼ばれる不動明王は、青山に寺があった明治15(1882)年に
麻布谷町(現在の六本木)にあった観行寺が廃寺となり
その本尊が遷されたものです。

目青不動の名は、世田谷に移転してから呼ばれているもので
なぜ、この不動明王像が「目青」なのか、正確なことは不明だそうです。
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江戸五色不動 目赤不動尊

2015年04月28日 | 
文京区本駒込にある天台宗の大聖山東朝院南谷寺は
目赤不動尊として知られた寺院です。

(目赤不動尊)

言い伝えによれば、元和二(1616)年に比叡山南谷の萬行律師が、
霊夢により伊賀の赤目山で祈願し、天から不動明王像を授かり
これを後に江戸近郊下駒込(現在の駒込病院近く)に結んだ庵に安置し
不動堂としたことに始まるとされています。
この事は、駒込病院の北東側にある「動坂(不動坂、堂坂とも言われた)」に
名残りをとどめています。

(動坂上)

この頃は「赤目不動」と呼ばれていましたが、
德川家光によって、「目白・目黒に倣って目赤と呼ぶように」とされ
目赤不動尊と名乗るようになりました。

近くには、吉祥寺や御茶ノ水泉水の高林寺、江戸三大市場の駒込土物店など
江戸の歴史を語るには外せない寺院が建ち並んでいます。

(土物店跡)
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江戸五色不動 目黒不動尊

2015年04月27日 | 
目黒不動尊は、五色不動の中でも抜群の知名度と広い境内が残る
都内屈指の名刹です。
所在地である目黒区も、この目黒不動尊に由来しています。
五行説では、黒は「水」に相当します。

(三門)

(本堂)

天台宗の寺院で山号寺号は泰叡山瀧泉寺(りゅうせんじ)と言います。
荏原台と、清水池あたりを水源とする羅漢寺川(目黒川支流)の谷の境にあって
境内に落ちる独鈷の滝は、この崖線から湧いている天然の湧水です。
この水は、いまでも羅漢寺川の源流のひとつとなっています。

(独鈷の滝)

境内には桜も植わっていて、春には花見客で賑わうほか
毎月8のつく日が縁日で、特に28日には露天商も建ち並び
参拝客で賑わいます。
また、境内を路線バスが通過することでも、知られています。
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江戸五色不動 目白不動尊

2015年04月26日 | 
江戸五色不動は、五行思想の五色に基づく名称や伝説をもった不動尊を
まとめて称した5色6箇寺を指す総称です。
その総てにおいて、目「某」不動と呼ばれています。
実際には、江戸時代から呼ばれていたものではなく
明治以降に江戸の噂話や伝説を合わせて、名所的にまとめたものと考えられています。
よく言われるのは、黒衣の宰相天海が五寺を決め
それぞれを繋ぐと星の形になり、それが江戸城の結界であるというもの。
5つの点を結べば星の形になるのは当たり前ですし、
天海の没後に明暦の大火が起こり、多くの寺院が移転しているので
あまり意味のない「都市伝説」なのです。

目白不動尊は、そのうちの「白」、五行説の「木・火・土・金・水」の「金」にあたる不動尊です。
正式名称を神霊山金乗院慈眼寺と言い、天正年間の創建とされています。
最初は中野の宝仙寺の末寺でしたが、後に護国寺の末寺となりました。

(目白不動尊)

目白不動尊は、もともと文京区関口にあった、新長谷寺という
金乗院と同じく真言宗豊山派の寺院にあったもので
戦災で廃寺になったために、金乗院に移されました。

目白の地名・駅名は、この元の新長谷寺の目白不動尊に由来しています。

(金乗院本堂)
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江戸六地蔵 永代寺

2015年04月25日 | 
江戸六地蔵のさいごは、深川の高野山真言宗大榮山永代寺です。
現在の永代寺は、元々の六地蔵の永代寺ではありません。
寛永元(1624)年に永代島に創建された初代永代寺は
江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として、門前仲町の地名の由来になるほど栄えましたが
明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。

(現在の永代寺)

現在の永代寺は、廃寺となった永代寺を再興するために
元の永代寺塔頭である吉祥院が、その名を継いで中興したものです。
本来の境内跡地は深川公園や深川不動となっています。

(深川不動)

(富岡八幡宮)
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江戸六地蔵 霊厳寺

2015年04月24日 | 
江戸六地蔵の五番目は、浄土宗の寺院、道本山東海院靈嚴(霊厳)寺です。
現在、江東区白河にあるこの寺は、寛永元(1624)年の開山で
元々は平河河口の葦原を埋め立てた霊厳島(霊岸島、現 中央区新川)にありました。

(霊岸島にかかる霊岸橋)

明暦の大火ののちに、幕府の命によって現在地に移ります。
境内には、松平定信(白河城主)の墓があり、
当所を以って住所地である白河の由来となっています。

(霊厳寺)
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江戸六地蔵 真性寺

2015年04月23日 | 
江戸六地蔵の四番目は巣鴨にある真言宗豊山派の醫王山東光院眞性寺。
その立地から、「とげぬき地蔵」と勘違いする人も多いようですが
とげぬき地蔵は高岩寺、六地蔵は真性寺と、別の寺院です。

(真性寺)

(こちらは、とげぬき地蔵の高岩寺)


現在は中山道(国道17号線)と旧中山道の分岐点に建っています。
開基は聖武天皇の勅願とされていますが、詳細はわかっていません。

中山道は巣鴨から板橋宿に至るまで、植木屋や種屋といった
江戸土産になる農作物を売る店などや、茶屋が点在しており
参勤交代の大名や、江戸市民で賑わっていたようです。
また、飛鳥山などの観光地も近いことから
この寺にも庶民のみならず、将軍吉宗なども度々立ち寄ったとされています。
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江戸六地蔵 太宗寺

2015年04月22日 | 
江戸六地蔵の三番目は、新宿にある浄土宗霞関山太宗寺。
慶長の頃に、僧太宗が結んだ草庵「太宗庵」が前身とされています。

(太宗寺)

甲州街道内藤新宿にあり、境内には地蔵菩薩像の他に
閻魔像や奪衣婆像、塩かけ地蔵立像などもあり
江戸庶民から信仰されてきました。

地形的には、蟹川支流の谷頭の窪地で、過去には境内に大きな池があり
新宿西口からの本流と、新宿文化センター付近で合流して
尾張德川家下屋敷(現在の戸山公園一帯)に流れ込んでいました。

現在ではすぐ近くに、ゲイの聖地・新宿二丁目の仲通りがあり、
昼間よりも夜の方が活気のある「水っぽい」場所に佇んでいます。

(朝の新宿二丁目)
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江戸六地蔵 東禅寺

2015年04月21日 | 
江戸六地蔵の二番目は、奥州街道日本堤の洞雲山東禅寺という曹洞宗の寺院。
寛永元(1624)年の創建と伝えられています。

(東禅寺)

吉原から山谷堀を渡ったすぐの場所ですが、江戸時代にはまだ
田畑が広がる場所で、その中に寺町と遊郭が
島のように浮いて見える場所だったようです。

(三谷堀)

地蔵菩薩像の横には、あんぱんでおなじみの銀座木村屋總本店の創業者
木村安兵衛夫妻の像も建っています。

(木村安兵衛夫妻像)
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江戸六地蔵 品川寺

2015年04月20日 | 
江戸六地蔵は、宝永三(1706)年に発願し、江戸市中から広く寄進を得て
江戸からの各街道における、江戸の出入り口付近に造立された
六体の地蔵菩薩坐像です。
京都の六地蔵巡りに倣ったとも言われています。

その、江戸六地蔵の第一は、やはり五街道の第一である東海道。
江戸・日本橋を発って最初の宿場町である品川の
海照山普門院品川寺(ほんせんじ)という、真言宗醍醐派の寺院に
造立されています。

(品川寺)

この寺は太田道灌によって大圓寺という寺号で建立されたとされ、
その後荒廃するも承応元(1652)年に再興され、品川寺となったとされています。

この寺にある梵鐘は、パリ万博やウィーン万博にも展示され
その後行方不明になっていましたが、ジュネーヴ市の美術館に収蔵されていることが判明し
昭和五(1930)年に、ジュネーヴ市の好意により、品川寺に返還されています。

東海道品川宿にあることから、新選組副長土方歳三はじめ
東海道を行き来した多くの武人文人が訪れたとされています。

(近隣の釜屋は新選組が休息に使ったとされる)
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平川門

2015年04月19日 | 
平川門(平河門)は、江戸城つまり現在の皇居の北東側に作られた搦手門です。
家康公入府以前、つまり太田道灌がこの地に江戸城を築城した頃から
平川門はあったとされています。

(平川門)

太田道灌入城の頃は、神田川(平川)の河口がこの付近であり
街場が形成され賑やかな門前であったとされています。

(新旧神田川の分岐点)

家光の時代以降は、大奥に一番近い門であったので
大奥に詰める女中などの通用門として使われたと言われています。
また、吉宗の時代以降は、御三卿の登城口としても使用されたようです。

(天守石垣から大奥付近を望む)

平川門は、不浄門とも呼ばれています。
これは、城内での死者や罪人を城外へ出す為に平川門が使われたことに由来し
桝形にある櫓門の西隣の高麗門が、その為の門だったとも言われています。

(付属の高麗門)

この(城内から城外への)一方通行の門を出た有名どころでは
絵島(江島)生島事件の絵島や元禄赤穂事件の浅野内匠頭長矩です。
平川門から出た罪人は、大手濠側で舟に載せられ、江戸城を後にしたとされています。

また、門の北西方向には竹橋に向けて帯曲輪が伸びていて
かつての江戸城の面影を遺しています。

(帯曲輪と平川門)

現在は、皇居東御苑の参観者入り口として、多くの観光客が出入りしています。

(平川門)
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半蔵門

2015年04月18日 | 
半蔵門は江戸城の西側に有って、甲州街道に通じる門です。
一般的には、德川家康家臣である服部半蔵正成率いる伊賀同心や
与力の組屋敷が門外にあって、四谷見附までの甲州街道一帯を警護していたのが
半蔵門の名の由来と言われています。
江戸時代初期には、糀町口と呼ばれていました。糀町は、今の麹町のことです。

江戸時代には、隠居した前将軍つまり大御所と、継嗣が住む吹上の門で
現在では、陛下のお住まいである御所に通じる門として
陛下と内廷皇族だけが利用される、いわゆる天皇家の私的な玄関でもあります。
そのため今昔にわたって、最高レベルの警備が施されている門なのです。

(半蔵門)

元々あった旧来の門は、空襲で焼失してしまいました。
文献によっては、焼失した門の代わりに和田倉門を移築したとされますが
実際には、関東大震災直後に、倒壊焼失を免れた和田倉門を
現在の半蔵門の内側、かつて玉川上水を引き入れていた堀割に面して移築保存し、
戦災で本来の半蔵門が焼失したためこの門を半蔵門として再度移築した
と考えられます。また一説には和田倉門ではなく山吹門とも言われています。

(和田倉門跡)

これは、陛下のご幼少期の
「門が焼けてしまったので内側の小さな門を移した」というご記憶にも合致しています。

この簡素ながら剛直な現在の半蔵門は、皇室の玄関として充分な貫禄を持って
今日も陛下を護っているのです。

(桜田濠から半蔵門遠望)
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千鳥ヶ淵と局沢の谷

2015年04月17日 | 
桜の名所、千鳥ヶ淵は江戸城のダム。
上水として使用されるため、江戸城の濠のなかで一番標高が高いのです。

(春の千鳥ヶ淵)

德川幕府による江戸城の普請以前は、千鳥ヶ淵は番町からの谷の同流地点で、
これを飲料水などに使用する目的で堰き止め内濠としました。

(番町の谷と大妻通りの交差点)

玉川上水開通後は、一部の上水がここに流入するよう配置されています。
土塁は、以前よりあった崖地を利用しているとされています。

本来の谷は現在の首都高のトンネル付近にあって、首都高建設時に
谷を埋め立てた遺構や、上水道の石垣が出土しています。
天下普請以前は乾門付近から南下していたことの裏付けです。

(乾門)

西の丸、現在の宮殿北側にある紅葉山と、本丸の標高差があまりなく
その間にある蓮池濠が、かつての谷筋と考えられています。

(西の丸と本丸の間にある蓮池濠)

濠は、ほぼ河口に近い地点であるため、
水面は海水面と比べてもそれほど高くはなく、
本丸や西の丸が、本来の台地を利用しているとすれば
その比高を考えてもかなり深い谷だといえます。

(本丸の富士見櫓)

(西の丸の伏見櫓)


江戸重継の館や太田道灌による江戸城が、この付近に築かれたことを考えると
家康入府以前の江戸城も、かなり強固な城であったことがわかります。


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両国

2015年04月16日 | 
両国は、今では国技館のある場所としてお馴染みの街です。
(ちなみに筆者の幼少時は、国技館といえば蔵前でした)

(総武線と国技館)

そんな江戸情緒あふれる両国も、かつて江戸時代初期は
江戸(武蔵國)ではなかったのです。

両国の名は、隅田川(大川)に架けられた橋「両国橋(兩國橋)」に由来します。
この橋は、架橋当時隅田川が武蔵國と下総(下總)國の境界であった為
この名がつけられました。
貞享三(西暦1686)年に国境が変更となり、江戸府内に組み入れられたのです。

(両国橋)

両国橋の上流側の袂では、神田川の人工開削流路が隅田川に合流しています。
神田川開削に遅れること六十余年にして、対岸の街は
江戸の街になったのです。

(両国駅)
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