浅草寺 駒形堂

2019年07月31日 | 東京のお散歩
雷門を出てそのまま真っ直ぐ進むと、駒形橋に抜けますが、
この橋の側に立つ堂宇が駒形堂です。

推古天皇卅六年(628)、檜前竹成・浜成兄弟(のちに三社様の祭神)
宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた時に観音像が網にかかり
この兄弟の手によって上陸した場所がこの場所とされています。

聖観世音菩薩示現の地として、後に馬頭観音が草堂に祀られ
人々は心願成就のお礼に馬の形の供物を奉納したと言われています。

天慶五年(942)に平公雅によって堂宇が建立されたと伝えられ
前述の逸話から「駒形堂」と呼ばれるようになったとも言われています。






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浅草寺 久米平内堂

2019年07月30日 | 東京のお散歩
久米平内は、江戸時代の武士で剣に優れていたとされ
一説には首斬り役人だったとも、試し斬り役だったとも
はたまた辻斬りをした浪人だったとも言われています。

晩年、多くの人を殺めた事を悔いて自らの座禅姿を石に刻み
これを浅草寺境内に埋めさせ、石像を踏みつけさせる事で
罪が軽くなるよう願ったものと言われていますが、
一説には仁王座禅の法という、平内が教えていた座禅法の
一種のコマーシャルだったとも言われています。

久米平内という人物も、奉安されている石像の由縁も
正確なことはほとんどわかってはいません。

確かなことは、言葉遊びの好きな江戸っ子たちによって
踏みつけ=文付け(恋文つまりラブレター)に転化し
縁結びの神様として祀られるようになったということ。

当時の堂宇は戦災で焼失したため、昭和五十三年(1978)に
浅草寺開創千三百五十年間記念として浅草観光連盟によって
再建立・寄進されたものです。








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浅草寺 弁天堂

2019年07月29日 | 東京のお散歩
浅草寺の南東側の小高い丘にある弁天堂は
藤沢の江ノ島弁天と、柏の布施弁天と並ぶ
関東の三弁天と称される有名な弁天さまです。

弁天堂は昭和五十八年(1983)に再建されたもので
かつては丘は池の真ん中にありましたが
現在は埋め立てられてしまっています。






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浅草寺 一言不動尊

2019年07月28日 | 東京のお散歩
浅草寺境内の一言不動尊は、享保十年(1725)に建立された堂宇で
何か願い事を一つに限ってお祈りすると、願いがかなうとされています。





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浅草寺 三峰神社

2019年07月27日 | 東京のお散歩
浅草寺境内に鎮座する三峰神社は、秩父の三峯神社の末社で
浅草寺に勧請された由縁は不詳ですが、江戸には三峯講が多くあり
また隅田川(荒川)によって三峯山と地理的繋がることから
講のためのものとして勧請されたとも考えられています。






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浅草寺 六角堂

2019年07月26日 | 東京のお散歩
浅草寺の中で最も古い建物とされる六角堂。

以前は現在の影向堂南あたりにありましたが
他の堂宇同様、平成六年の境内整理で現在地に移りました。

木造単層で瓦葺の六角造りという稀有な構造で
記録によれば元和四年(1618)の建立だそうです。

堂内には日限地蔵尊が奉安されています。





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浅草寺 薬師堂

2019年07月25日 | 東京のお散歩
慶安二年(1649)に、徳川家光によって建立された薬師堂。
本堂の北西にある現在のこの薬師堂は2代目目の堂宇で、
家光が再建する以前は本堂の北側にあったため、
北薬師と呼ばれていました。

なお、現在の堂宇は平成六年に境内整理のために
現在地に遷されています。

堂内には藥師如来だけでなく、日光菩薩、月光菩薩、
十二神将、十王が奉安されています。





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浅草寺 影向堂

2019年07月24日 | 東京のお散歩
浅草寺影向堂(ようごうどう)は、平成六年(1994)に
浅草寺中興の祖である慈覺大師圓仁の生誕1200年を祝って
守り本尊である影向衆を祀る堂宇として建立したものです。

浅草寺の御朱印は、ここで受付けているため、
御朱印ブームの昨今、行列が絶えません。







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浅草寺 淡島堂

2019年07月23日 | 東京のお散歩
元禄時代に、紀州加太の淡島神社を勧請して建てられた堂宇で
戦災で焼失した本堂に替わり、仮本堂として御本尊を奉安した事もあります。
 
 
本堂復興後は、影向堂として現在の二天門の南側に移されていましたが
平成六年(1994)に、曳屋によって現在地に移築されました。
 
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浅草寺五重塔

2019年07月22日 | 東京のお散歩
浅草寺の五重塔は、昭和四十八年(1973)に再建されたもので
スリランカのイスルムニア寺院から奉戴された仏舎利が
最上層に奉安されています。
 
塔は地上の基礎からではなく、基壇となる伽藍上に建っています。
 
平安時代には三重塔があったとされ、寛永の頃には既に五重塔が建ち
谷中・四天王寺、芝・増上寺、上野・寛永寺とあわせて江戸四塔と称されました。
 
明治期に修復が行われましたが戦災で焼失し、現在の塔が再建されました。
 
 
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待乳山聖天

2019年07月21日 | 東京のお散歩
浅草寺の東北側にある比高10mほどの小高い丘に、待乳山聖天があります。
 
浅草寺の支院のひとつで、本龍院と号されています。
 
伝説によれば、推古天皇三年(595)に一夜にして出来た山で
その時、金の龍舞い降りて、山を守ったとされています。
またその六年後の推古天皇九年夏、干ばつで苦しむ人達のために
十一面観音の化身である大聖歓喜天が降臨して人々を救済したと謂れています。
 
待乳山は真土山に通じていて、隅田川(荒川)の堆積物による州のなかに
この丘だけ土で出来ていて、洪水や津波にも飲まれなかったため
聖地とされたと考えることもできます。
 
作家の故池波正太郎氏は、この山の麓で生まれています。
 
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道引長太郎地蔵尊

2019年07月20日 | 東京のお散歩
雷おこしで有名な常盤堂のとなりに鎮座するお地蔵さん。
 
道引は導き、つまり引導のこととされています。
 
 
もともとこの地には長太郎地蔵という地蔵尊がありました。
元禄の頃には馬場尻地蔵とも記されていることから、
馬丁らを弔うためのものとも、生類憐みの令発布の際に
僧侶が長太郎という者に狂犬を集めさせ、それを隅田川に流し
自らは上手く隠れたものの、長太郎は僧侶が自害したと思い込み
川へ身投げしたのを弔うためとも謂れています。
 
 
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言問橋からのスカイツリー

2019年07月19日 | 東京のお散歩
観光客の多くは、浅草雷門からの近さからか吾妻橋からスカイツリー®️を撮るようですが
言問橋の袂からだと、真正面に見ることができます。
 
 
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浅草 姥ヶ池

2019年07月18日 | 東京のお散歩
浅草寺二天門から隅田川方向へ向かうと、小さな池のある花川戸公園という公園があります。
 
かつてここには、隅田川へ通じる大きな池があり、姥ヶ池と呼ばれていました。
 
姥ヶ池は、この辺りが浅茅ヶ原と呼ばれていた用明天皇の時代の鬼婆伝説に由来しています。
 
ひと気の少ないこの原野にただ一件建つ荒屋に、老婆と若く美しい娘が住んでおり
奥州や房州への旅人を泊め(ると見せかけ)ては、老婆が旅人を石で殺害し
吊るした大石で押し潰しては金品だけを奪って、旅人の亡骸を池に捨てていました。
 
娘は、老婆のその非道な行いをいつも諌め、やめさせようとしていました。
 
あるとき一人の旅の稚児を泊めて、同様に殺してみるとそこにあった亡骸は稚児ではなく
娘の亡骸で、それは自らが犠牲になることで、老婆の行為を咎めようとした結果でした。
 
殺したはずの稚児は実は浅草寺の観音菩薩の化身で、老婆に人道を説くために現れたのでした。
 
その後老婆は龍になったとも、仏門に帰依したとも、この池に身を投げたとも伝えられ
この伝説により、池は姥ヶ池と呼ばれるようになったとの事です。
 
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猿若町

2019年07月17日 | 東京のお散歩
江戸時代、政府(幕府)の政策によって、歌舞伎劇場の三座(中村座、市村座、森田座)が
一斉に江戸郊外の浅草聖天町に移転させられました。
 
その際に、この一帯(現在の浅草六丁目付近)を猿若町と称されるようになり、
明治時代まで芝居小屋の街として大いに栄えたそうです。
 
 
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