市谷亀岡八幡宮

2015年06月30日 | 東京のお散歩
JR線市ヶ谷駅の北側は、牛込台地の崖になっていて、
江戸時代以降外濠となった紅葉川の谷から急激に立ち上がっています。

その崖の上に市谷八幡宮は鎮座しています。



文明十一(1479)年に、江戸城築城の際の西方守護のために
鎌倉鶴岡八幡宮から分霊賜り、祀ったことが由緒とされています。





当初は谷の対岸、千代田区側の市谷見附内にあったそうですが、
江戸城惣構が完成した寛永の頃に、現在地に遷座しました。

江戸時代には家光や桂昌院らの信仰を受け大いに繁栄し
境内には芝居小屋なども建ったそうです。
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聖徳記念絵画館

2015年06月29日 | 東京のお散歩
神宮外苑、有名な銀杏並木の先にゼツェシオン風の重厚な建物があります。
明治神宮が管理運営する聖徳記念絵画館で
明治天皇の生涯の遺徳を描いた絵画を展示するために
明治天皇崩御後に陸軍青山練兵場跡地の現在地に建てられたものです。



明治天皇の大喪の礼が行われたのもこの地で、伏見桃山御霊への霊柩列車は
裏手を走る中央線から臨時に引き込み線を敷設して運転されました。

現在でも絵画館の裏手には、葬場殿の跡が遺されています。
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華頂宮

2015年06月28日 | 
鎌倉の谷戸には、数々の古刹がありますが、その中で異彩を放つのが
ハーフティンバーの建物、旧華頂宮邸です。





昭和四(1929)年に華頂博信侯爵の邸宅として建てられたものです。
華頂博信侯爵は徳川慶喜を祖父に持つ伏見宮博恭王の三男で、
海軍少尉であった20際の時に臣籍降下しました。
その二年前に兄である華頂宮博忠王が薨去されたことで
断然していた華頂宮家の祭祀を継承する侯爵華族として、華頂の家号を賜わりました。

なお華頂博信は、旧皇族の離婚第一号という不名誉な称号も持っています。
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佐助稲荷

2015年06月27日 | 
鎌倉、源氏山の西側の山深くに、佐助稲荷という神社が鎮座しています。
源頼朝が伊豆に配流されていた頃、夢枕に立った翁の霊言によって
挙兵を決心し武家の棟梁にまで登り詰めることができました。
その御礼として頼朝によって建てられたのが佐助稲荷神社です。





佐助の名の由来には諸説ありますが、頼朝が伊豆に配流される直前まで
従五位下右兵衛権佐を叙位任官し(叙任後14日で解官)、
その後も佐殿(すけどの)と呼ばれており、この佐殿を助けたことから
佐助と名付けられたとするのが一般的のようです。
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銭洗弁天

2015年06月26日 | 
鎌倉の銭洗弁天は、銭洗弁天宇賀福神社を正式名とする神社です。



文治元(1185)年に源頼朝が霊夢によって霊泉を見つけ
そこに宇賀神(蛇の体を持つ福の神。弁財天と習合)を祀ったのが由来とされています。



その後、正嘉元(1257)年に鎌倉幕府執権北条時頼が
この弁財天の霊泉で銭を洗い一族繁栄を祈願したことが
銭洗弁天のはじまりと言われています。



昭和初期に穿たれたトンネルを通ると、周囲を急峻な崖に囲まれた境内に出ます。



崖に穿たれた洞窟の奥には、鎌倉五名水のひとつ「銭洗水」が湧き出ていて
この水でお金を洗うことでご利益があるとされています。



なお、日本の紙幣は和紙の技術を使用しているので、水に強いですが
海外の紙幣は水に弱いので、洗うとボロボロになります。

洗ったお金は種銭になります。
これを資金にしても「資金洗浄(マネーロンダリング)」ではありませんので
ご安心くださいw
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行船公園平成庭園

2015年06月25日 | 東京のお散歩
江戸川区にある行船公園は、東京府議会議員でのちに衆議院議員にもなった
田中源氏が、所有する土地1万坪を東京市に寄贈したことから
氏の屋号「行船」の名を冠した行船公園として開園しました。



昭和二十五(1950)年に江戸川区に移管され、同五十八(1983)年には
自然動物園(無料!)も開園します。

(ペンギン)

(動物とふれあうこともできます)

そして平成元(1989)年には公園北側に、数寄屋造りの建物と
和風の池泉庭園のある平成庭園が開園しました。

(平成庭園)

湧水池と、そこから流れるせせらぎに広がる菖蒲田、その下流の潮入池、
更に潮入池から溢れ出た水が帯状の滝となって注ぐ主池や
潮入池の対岸にある滝組など、池泉庭園の美を数多く採り入れた
現代日本庭園の名園です。

(源心庵)

(湧水)

(せせらぎ)

(菖蒲田)

(潮入池と堰堤)

(滝組)

(竹林)

東京メトロ東西線西葛西駅から徒歩約13分
入園無料
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花畑記念庭園

2015年06月24日 | 東京のお散歩
足立区北部にある花畑(はなはた)に、足立区制定五十周年を記念して作られた
花畑記念庭園という、本格的な池泉式回遊庭園があり
無料で庭園をめぐることができるようになっています。

(滝組)

(渓流)

(石燈籠)

(四阿)

庭園外周も、池泉とつながっている堀に囲まれていて
城郭や大寺院を思わせる趣のある造りとなっています。

(堀)

(堀と池をつなぐ水路)

(木橋)


東武伊勢崎線(スカイツリーライン)竹ノ塚駅から
東武バス花畑団地行きで「団地入口」下車すぐです。
入園無料。休園日あり。
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山本亭

2015年06月23日 | 東京のお散歩
葛飾柴又の帝釈天の裏手に、書院造りに洋風建築の意匠を採りいれた瀟洒な建物と
その建物から眺めることのできる美しい庭園のある山本亭があります。



これは、カメラの部品などを製造している合資会社山本工場という会社の
創立者山本榮之助氏の邸宅として大正末期から昭和初年にかけて作られたものです。
(山本工場は現在も金属塑性加工業として、活躍しています)

庭園に出ることはできませんが、アメリカの日本庭園専門誌“SUKIYA LIVING”の
全国900箇所以上が対象となる調査で、常に7位以上にランキングされています。
2014年度調査では堂々3位にランキングされている庭は
回遊できずとも、十分に満足できる美しい庭園です。

















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富岡八幡宮と伊能忠敬

2015年06月22日 | 東京のお散歩
深川の富岡八幡宮には、伊能忠敬の像があります。

(伊能忠敬像)

これは、伊能忠敬が深川黒江町(現在の門前仲町一丁目)に住み
測量に旅立つ際には必ず富岡八幡宮を参拝していたことから
伊能忠敬の測量開始から201年目の平成十三(2001)年に建立されたものです。



(富岡八幡宮)

上総国の名主の家に生まれた忠敬は、佐原の商家伊能家に婿として入ります。
隠居後齢50にして江戸に出て、天文などを学んだ後に測量の旅に出ています。

日本全国を一歩ずつ歩いて正確な地図を作ったという偉業が
「老後」に行われたという事実は、中年間近の筆者にとっての
羨望と勇気にもなっていますw
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金銀銅

2015年06月21日 | 
伊東忠太の建築でもうひとつ。

京都の有名な建築物といえば数々ありますが、その中でも世界的知名度のある
金閣(鹿苑寺舎利殿)や銀閣(慈照寺観音殿)などは、実際に行った事がなくても
書籍やテレビなどで一回は目にした事があると思います。

(金閣)

(銀閣)

さて、みなさんは金銀ときたら、次は何を思い浮かべるでしょうか。
ほとんどの人は銅を思い浮かべると思います。
パールと言った人は、かつてライオンが行っていた
「ブルーダイヤ」(洗剤)のキャンペーンのアレを思い出したんでしょうねw

金閣、銀閣があるのなら、銅閣も!と考えた人が明治時代にいました。
ホテルオークラや大成建設(大倉組)を率いた大倉財閥の設立者である大倉喜八郎です。

大倉喜八郎の別邸として建てられた真葛荘の屋根を胴葺にし
金閣銀閣に次ぐ銅閣と称しました。

(銅閣)

祇園祭の山鉾をモチーフにしているため、正式には祇園閣と呼ばれています。
設計は、ホテルオークラの大倉集古館を設計した伊東忠太です。

(京都の街を巡行する山鉾)

(大倉集古館)

この「銅閣」は、現在は浄土宗系単立寺院の大雲院の伽藍となっています。
非公開の建物ですが、東山の街から聳え立つ屋根を眺めることができます。
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靖国神社を歩く(建築と庭園)

2015年06月20日 | 東京のお散歩
良くも悪くも話題に挙がること事の多い靖國神社。
元々は招魂社と呼ばれ、幕末のペリー来航以降の明治維新で功績のある武士や
国事に殉じた軍人・軍属および国内外の事変や戦争による戦没軍人
246万6千余柱の英霊を祀る神社です。
今回は、この靖國神社を歩いてみます。

靖國神社の源流となっているのは、本殿南側にある本宮と呼ばれる
幕末に京都で作られた小祠で、靖国神社本殿と靖国通りに挟まれた場所とは思えない程
厳粛な雰囲気の中に鎮座しています。

(本宮の鳥居)

(本宮の東側にある、神道無念流練兵館跡の碑)

靖國神社は東を向いているため、九段下方向から境内に入る事になります。

(大鳥居)

巨大な大鳥居を潜ると、招魂社建立に尽力し、着工を待たずして暗殺された
大村益次郎の銅像が立っています。これは日本初の西洋式銅像と言われています。

(大村益次郎像)

二の鳥居を潜ると伊東忠太設計の神門です。

(二の鳥居と神門)

神門を入って右側には能楽堂があり、その前には桜の標本木があります。
これは都内の桜の開花宣言に使われる基準の桜です。
神門と中門鳥居の間には多くの桜が植わっていて、
春になると、戦場で散っていった多くの命たちが同期会を開くが如く、
一斉に美しく咲き並びます。

(開花したての桜)

中門鳥居の先が、一般の参拝に使われる拝殿です。

(拝殿)

今回は、誰もが目指すこの拝殿ではなく、参道を右に曲がり
遊就館方面へ行ってみましょう。

遊就館は零式艦上戦闘機や艦上爆撃機彗星(ともに復原)や
櫻花、回天といった特別攻撃に使われた人間兵器(ともにレプリカ)、
鐵道省制式C56型蒸気機関車などの大型展示物から
皇室ゆかりの品々や戊辰の役の際に官軍によって使われた錦の御旗など
祭神にまつわる資料を集めた宝物館です。
南向きに建てられた本館は
関東大震災によって大破した、初代の建物に代わる伊東忠太による建築で
その扁額は閑院宮載仁親王の揮毫によるものです。

(遊就館)

遊就館の前を左に曲がり奥へ進むと、春季例大祭などの際に奉納相撲の行われる土俵と
その支度部屋として使われる啓照館があります。

(啓照館)

啓照館を右に見て更に奥が、神池庭園です。

(神池庭園)

この庭園は明治時代に造営されたもので、荒廃していたものを
平成十一(1999)年に復元したものです。
茶室や四阿を周囲に配した池泉式回遊庭園で、日本一の長さを誇る花崗岩の石橋や
豪壮な滝組などが造られた、有数の日本庭園です。

(滝組から常に綺麗な水が流れ落ちているので、池は澄んでいる)

靖國神社は、日本の髄が詰まっている空間でもあるのです。
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築地本願寺

2015年06月19日 | 東京のお散歩
浄土真宗本願寺派本山である、京都・西本願寺の別院として開かれた築地本願寺。
元々は日本橋横山町にあり浅草御坊と呼ばれていましたが、
明暦の大火後に代替地として大川(隅田川)河口沖が下付され、
海を埋め立て土地を築いた事から「築地」御坊と呼ばれるようになりました。



当時の本堂は南西向きに作られ、現在の築地場外が門前町となりました。
門前には海軍大學校などがあり、この軍用地が後に築地市場となります。
場外市場の一部が「もんぜき通り」と呼ばれるのは、本願寺門前町に由来しています。



関東大震災後の火災で伽藍が焼失したため、昭和九(1934)年に
当時の法主大谷光瑞伯爵の発願、伊東忠太の設計で新たに再建されました。
この際、古代インド様式の本堂の向きは北西に変わりました。

戦前の宗教建築としては珍しくRC造(鉄筋コンクリート)で、
ふんだんに大理石彫刻がほどこされています。

現在では西本願寺別院から、西本願寺唯一の直轄寺院となり
本堂は国の重要文化財に指定されています。
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宝仙寺

2015年06月18日 | 東京のお散歩
中野坂上にある真言宗豊山派明王山聖不動院宝仙寺は、都内屈指の古刹で
著名人の葬儀などでも斎場として使用されることでも有名です。
最近では、赤塚不二夫氏の葬儀が行われたことでも有名です。



創建は平安時代末期の寛治年間(西暦1090年頃)で、源義家によるものとされています。
当初は阿佐ヶ谷に創建されましたが、室町時代に現在地に遷されました。
江戸時代には将軍の鷹狩の際の休息所としても使われた事から、篤い尊崇を受けました。

明治時代になると、中野町役場が境内に造られ、その後中野町が中野区となり
昭和十一(1936)年に現在の中野郵便局の場所に区役所が移転するまで、
区政の中心でもありました。



境内にはある石臼塚は、神田川にあった水車によって挽かれた蕎麦粉が
江戸東京中に供給されていた頃に使われていた石臼を供養するためのものです。

製粉の機械化によって石臼が打ち棄てられているのを見かねた
五十世住職富田敦純大僧正が、その供養のために建立したものです。
蕎麦食いにとっては、聖地というべき場所なのです。

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湯島聖堂

2015年06月17日 | 東京のお散歩
神田川の左岸、湯島台の斜面に湯島聖堂はあります。



ここは、昌平坂学問所(昌平黌)として江戸時代に官営学校だった場所で
元々は孔子(孔丘)を祀る孔子廟です。



現在、敷地内に建つ孔子立像は世界一の高さを誇る孔子像とされています。



現在の敷地内は、大成殿や神農廟、聖堂を管理している斯文会の事務所など
湯島台の斜面に手狭に並んでいますが、江戸時代には現在の医科歯科大の敷地も
昌平黌の敷地となっていました。

学問の内容、敷地の跡地の双方から、昌平黌は帝大(東京大学)、高等師範(筑波大)、
女子師範学校(お茶の水女子大)と帝室博物館(東博・科博)の源流ともされています。




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王子の狐と麻布の狸

2015年06月16日 | 東京のお散歩
落語でもお馴染みの王子の狐。
王子稲荷神社がその舞台ですが、安藤広重の浮世絵にもあるように
王子稲荷に詣でる狐が衣装を整える装束稲荷神社や
石神井川対岸の滝野川の高台には狐塚という塚(おそらく古墳)があったりと
江戸時代以前には、狐が棲息するような場所だったようです。

(王子稲荷)

(装束稲荷)

(狐塚)

一方、麻布にはかつて旧ソ連大使館の符牒として使われた「狸穴」という地があります。
「マミ」はアナグマもしくは雌狸を指す言葉で、
大昔に麻布台の崖地に、マミが棲んでいたために
狸穴(まみあな)と呼ばれるようになったという説があります。

(狸穴坂)

今では高層建築で地面の高低差が分かりにくくなってしまいましたが
都内の崖地は、大昔のまま地形が残され、そこに棲息していた動物たちの名残も
何らかの形で、こうして遺されているのです。
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