板橋宿

2015年02月28日 | 徒然
板橋宿は、日本橋から江戸を出て、中山道で最初の宿場。
(京から言えば、当然ながら最後の宿場)。
江戸時代には下板橋宿とも呼ばれていて
この場合の名称は、川越街道の東上線上板橋駅付近の宿場であり
上板橋宿に呼応した名称である。


中山道板橋宿は、門前町である巣鴨から庚申塚を経て
種問屋や茶屋が点在する滝野川から、そのまま板橋宿に入る。

宿場として整備されたのは、
現在北区と板橋区の区界付近にあった平尾一里塚から
旧川越街道の追分付近を過ぎて、王子新道との交差点までの平尾宿。

(平尾宿脇本陣 豊田家跡)

そこから橋である板橋までの仲宿。

(板橋宿本陣 飯田家跡)

(仲宿脇本陣 飯田家跡)

橋を渡り岩の坂を登りきり、現在の環七付近までの上宿である。

(上宿の石碑)

今でも、商店街として往時と同じように賑わっている。
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縁切榎

2015年02月27日 | 徒然
中山道板橋宿上宿に立つ榎は縁切榎と言われ信仰されている。
「悪縁を断ち切る」とされているこの榎は、もともと大六天神の神木で
元来、この下を嫁入り行列が通ると、必ず別れるとされていた。

(縁切榎)

仁孝天皇の皇女である和宮親子内親王が德川家茂に嫁ぐ際には
前もって迂回路を作り板橋宿本陣の飯田家に入った。

現在では、この榎に対して「縁結びのけやき」が
JR板橋駅西口に生えている欅に名付けられている。

(結びのけやき)
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板橋

2015年02月26日 | 徒然
東京都板橋区の板橋という地名は、石神井川に架かる
旧中山道の橋の名前からとられている。

JR板橋駅からは直線距離で1.5km、旧中山道を歩いて1.7km離れていて
最寄り駅は地下鉄三田線の板橋本町となる。

日本橋からは10.6kmの地点で、板橋宿のうち、仲宿と上宿の境にあたる。


(板橋)

京方が上宿で、岩ノ坂と呼ばれる坂となっている。
坂を登りきると、板橋から前野村清水となり宿場町は終わる。




(上宿の端には清水稲荷が建つ)

石神井川の上流側には、国道17号線と首都高5号線があり
新板橋という橋が架かっているが、こちらも新板橋駅からは1.6km離れている。
新板橋の脇には氷川神社が鎮座しており、富士塚などが遺されている。


(新板橋)


(氷川神社の富士塚)

板橋は下流側が二つに分かれている。
これは昭和30年代に洪水対策として行われた流路整理によって
京方に直線的な流路を開削をした為で、旧流路は公園となっている。

開削によって変わった、旧流路と現在の流路の深さを比べ流ことのできる
数少ない場所でもある。


(旧流路側)


(旧流路の公園)
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紀州

2015年02月25日 | 徒然
北区には、紀州ゆかりの場所が多い。

紀州音無川に倣った音無川という別称を持つの石神井川。


(石神井川)


(音無橋)


紀州熊野阿須賀神社に倣った飛鳥山。


(桜の名所、飛鳥山)


熊野権現の御子神を勧進し、当地の地名の由来となった若一王子社の王子神社。


(王子神社)

下村(現在の志茂)に紀州熊野三社権現を勧進した熊野神社。


(熊野神社)

紀州通り(王子消防署横)の名の由来にもなっている紀州神社。


(紀州神社)


(紀州らしく、紅白の梅が咲く)

かつて十二社と呼ばれ、熊野三山十二所権現と関係の深い尾久の船方神社。


(船方神社。左奥の観覧車はあらかわ遊園)

思いつくだけでも、以上の6箇所が思いつく。

飛鳥山を公園として整備したのは、江戸幕府八代将軍德川吉宗。
吉宗は紀州德川家からの将軍だが、それがために紀州由来のものが多いわけではない。

前述の場所は、江戸時代以前からのものばかりで
吉宗が飛鳥山を公園化したのも、隣地に紀州由来の王子権現が
鎮座していた為とも言われている。


(飛鳥山公園)

元々は、荒川沿いでは熊野信仰が盛んであったようで
平安時代、鎌倉時代に由来するものがほとんどのようである。
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石神井川音無渓谷

2015年02月24日 | 徒然
石神井川は、小金井市のゴルフ場付近を源流とする川で
練馬区石神井を経て、板橋区、北区を流れ、北区堀船で隅田川(旧荒川)に疎ぐ。


(石神井川の昔の面影を残す王子駅前)

このうち、板橋区内金沢橋(板橋第五中学と愛誠病院を結ぶ橋)から、飛鳥山下までを
古来、音無渓谷と呼ぶ谷でいくつもの滝を落としていた。


(音無渓谷)

これは、石神井川がその河床下に埋没谷を有しない河川だからこそ
作り上げられた自然の造形でもある。


(現在も急峻な崖を削らずに坂道が通る)


現在でも多くの支流や河床湧水を集めて流れていて、
その上に谷端川放水路や石神井公園の三宝寺池の余吐水など
増水時の雨水を石神井川に逃がしているためで、
流路整理で直線化された際に、浸水対策として
それまで以上に河床が深く掘り下げられた。

昭和30年代前半までの旧流路は、公園や緑道化されているところが多い。


(緑道の崖。現在も湧水が流れ出る)

流路整理前は、台風の増水で家屋流出や土砂崩れが頻繁に発生し
また川で遊んでいた子供が急流に飲まれて亡くなる事故が多かった。


(王子神社脇の元の本流は親水公園になった)

現在の深い河床になってからは、そのような事故は起こっていないが
浸水などは数回発生している。

深山幽谷の風景は消えたが、その代わりに減災が実現したことは
河川との共存の、現代のひとつのカタチである。
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平塚神社

2015年02月23日 | 徒然
東京都北区、国立印刷局や滝野川消防署が立ち並ぶ一角に
平塚神社という神社がある。



この神社は、古代に豊嶋郡衙があった場所とされ
平安時代末期には豊嶋太郎近義という人物が
城館を造ったとされている。


この城へは源八幡太郎義家が後三年の役後に逗留し
その際に近義の饗応への返礼に、自身の鎧と
守り本尊である十一面観音を授け、義家の没後に城の鎮護の為に
地中に鎧を埋めて平らな塚を造ったとされ
これをもって「平塚」の名の由来とするそうだ。

現在も社殿の裏には鎧塚という塚が遺されている。

鎌倉時代から室町時代には豊嶋氏の居城となり
その後太田道灌によって滅ぼされるが、その際の合戦を由来とする
「蝉坂」(攻坂の転訛とする)がJR上中里駅まで伸びている。



中里貝塚のある尾久駅北西側からは平塚神社の建つ崖が
新幹線の高架の後ろに聳え立つ。

建物や、まして新幹線などなかった古代・中世には
難攻不落の城砦に見えたにちがいない。

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七社神社

2015年02月22日 | 徒然
北区は西ヶ原にある、六阿弥陀・無量寺を別当寺とした
「ななやしろ」として祀られていた社が
境外末社であった一本杉神明社地に遷座したのが
「七社(ななしゃ)神社」である。



社地の裏手は崖になっていて「七社裏貝塚」などがあり
縄文時代から人が生活していた痕跡が確認できる。


拝殿前の狛犬は「子安犬」に通じ、子宝安産にご利益があるとされる。


現在でも境内に数多くの摂社・末社があり
西ヶ原の鎮守として奉祀されている。

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銭湯

2015年02月21日 | 徒然
アミューズメント系温泉施設やスーパー銭湯が増えた今、
破風造りの昔ながらの銭湯が減ってしまったような気がします。

建物はそのままで、中身はアトリエになっているという所もありますが
やはり餅は餅屋、風呂は銭湯ですね。




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春節

2015年02月20日 | 徒然
昨日は旧暦の正月、中華圏では春節でした。
台湾などでは連休です。

日本でも、旧習の残る地域や中華街などでは
連日、旧正月を祝う行事が行われています。

立春が過ぎて、旧正月も過ぎて
いよいよ本当に春がやってきます。

そろそろ冬眠から醒めなければ…
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谷端川と三業街

2015年02月19日 | 徒然
三業とは、料亭・待合・置屋の三業種を言い、
つまりは三業街とは花街の事を言う。

大塚駅の南側へ出た谷端川は、その三業街を暗渠となって進む。


(三業街の入り口)

通称プラタナス通り、共同印刷通りの北側を
蛇行しながら富坂下まで並行する。
この辺りまで来ると支谷もなく、途中小石川植物園付近の湧水を合わせる程度で南下する。


(小石川植物園)

次の大きな合流は、最下流付近の西片からの支流を合わせた東大下水との合流である。


(東大下水に沿って、菊坂が伸びる)

小石川植物園付近の南側には、湯立坂という坂があって
由来として、「昔、坂下に大河があり氷川の社に渡れないため、この坂で湯立を奉った」とされている。


(湯立坂の入口は地下鉄茗荷谷駅の目の前)

果たして谷端川がそれほどの大きな川だったのだろうか。
この辺りでは川の名が小石川(礫川、小石河、千川とも)と呼ばれていた。

神田川は現在でも満潮時には文京区関口付近まで
東京湾の海水が遡上する事を考えると、中世までは
小石川付近に海水が上がってきたことだけは充分に考えられる。

現在は、大塚駅から富坂下までの「小石川」区間を
都営バスの上60系統が並走している。


(上60系統)

富坂付近で東大下水と合流した流れは、後楽園遊園地の下を流れ
水道橋付近で神田川に合流する。
江戸時代には流路が整理されていたようで太古の流路は不明である。


(水道橋から神田川下流を望む)
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谷端川 北区から再び豊島区へ

2015年02月18日 | 徒然
JR板橋駅の下を潜った谷端川は、一旦大きく南へ折れた後
蛇行しながらも緩い弧を描いて大塚へ向かってさらに東行する。


(画面左で川は大きく曲がる)

大きく曲がる所為か、昔から氾濫が多かったようで
板橋駅東口付近、北谷端は度々浸水したようである。


(今年、開業130周年を迎える板橋駅)

下水幹線となった現在は、板橋駅東側で一部の余水を北へ分岐させ
千川上水と中山道の尾根の地下を北上し石神井川へ放流している。


(旧中山道から千川上水越しに谷端川方面を望む)

川は早い時期に暗渠となり、現在は普通の道路になっている。

明治通りを越える手前には、トキハソースの工場があって
ソースの香りが食欲をそそるように漂っている。


(下流側からトキハソースを望む)

明治通りとの交差点、現在警視庁滝野川庁舎の建つ場所は
以前は都営住宅が建っていて、そのまた昔は牧場で乳牛が飼われていた。


(牧場があった辺り。今は警視庁庁舎が建つ)

この場所には鎌倉橋という橋が架かっていて
川を渡る道は中世の古道、鎌倉往還である。
かつては都営バスのバス停「鎌倉橋」があった。


(鎌倉橋)

さらに東行すると、六ツ又の東側からの谷と合流する。
六ツ又は雲雀ヶ谷の谷頭であるが、現在の帝京平成大付近からも
谷端川の支流となる谷が広がっていて、巣鴨新田と呼ばれるこの付近で
池を湛えながら合流していた。


(巣鴨新田の名は都電に残る)


(池袋側からみた六ツ又)


(川跡の案内板)

川は南東へ進み癌研通りこと都道436号小石川西巣鴨線を斜めに渡る。
この通りは戦後の開通であるが、実は東上線が東上鐵道と言った大正元年当時の当初の工事免許区間であった、
大塚辻町から下板橋を経由して上州へ至る路線の
大塚・下板橋間にほぼ合致する(当区間の免許は大正9年に失効)。

上池袋の交差点を西進すると北池袋駅前に出るが
その手前の緩いカーブを無視して直線を描くと
東上線下板橋駅の急カーブに自然な形で接続する。


(不自然な急カーブは、当初の計画の名残)

さて、川は大塚へ向かって流れを早め、現在飲食店などが犇めく通りを音を立てて流れ
大塚駅の北側で小さな滝となって落ちていたようである。
この小さな滝には不動尊が祀られ信仰されていた。


(都電と滝不動)


(滝不動の由来)

川は山手線を潜り抜け、いよいよ山手線の内側へと進んでゆく。
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谷端川と池袋

2015年02月17日 | 徒然
神田川水系の谷端川は、西武池袋線椎名町駅付近から、
東武東上線下板橋駅と大山駅の中間地点まで山手通り沿いを北上する。

東武東上線の線路とぶつかるあたりで東行するが
この辺りをかつては「金井窪」と言った。

「窪」は、地形に由来する地名で、高松や中丸町からの支流が
この付近で合流していた。


(金井窪付近)

流れはここから東行する。
現在、東武東上線の留置線となっている旧貨物線の横の流れは
関東大震災以降に流路整理を行い、蛇行した流れを直線化したもの。
下板橋駅の駅舎前で東上線の線路をくぐり、板橋区板橋と
豊島区池袋本町の境を流れてゆく。


(乗務員用通路は、今でも「橋」のようになっている)

この付近の南側は「雲雀ヶ谷」といって、
池袋六ツ又付近を源流とする谷戸になっている。


(山手線線路の右側の道路が、V時になっている雲雀ヶ谷の谷頭部)

今でも六ツ又から流路跡と思しき細い路地が出ていて
山手線の切り通しで分断されているものの、JR線の車庫と埼京線、東上線を越えて、北池袋駅の西を北上し
90度のカーブで曲がる東上線を再度越えて、一の橋で合流する道が成立している。


(下板橋駅南端で浅い谷を越える東上線)


(一の橋)

ただし、古地図には流路として描かれず、水田となっていることから
古くから農業用水として利用され、河川としては認められていなかったようである。





一説に曰く、この雲雀ヶ谷の地形を以って「池袋」の由来とする。
確かに、雲雀ヶ谷の西側の地名は「池袋本町」であり
明治以前は「池袋 本村」であるので、可能性のない話ではない。


(雲雀ヶ谷へ下りる坂道)


(雲雀ヶ谷の名は、踏切などに残る)


暗渠となった現在は、板橋駅近くまで遊歩道が続く。


(谷端川遊歩道)

JR板橋駅のホームの下をくぐると、流れは北区へ入ってゆく。


(板橋駅。流路は地下道の右側にあった)
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板橋ラーメンストリート

2015年02月16日 | 徒然
JR板橋駅東口、北区滝野川7丁目。
駅前から線路脇を旧中山道方面へ登る坂道は
板橋ラーメンストリートと名付けられている。



名付けられてはいるものの、ラーメ店の数は多くない。
一時期は、この短い通りに何店もラーメン店が犇いていたが
入れ替わりも激しく、また通り自体が目立たないのか
ラーメン店も減りに減り、認知度も今ひとつのようでもある。

板橋駅周辺の北区滝野川や板橋区板橋には
昔からの、いわゆる中華屋系、定食屋系、赤提灯系の
古典的なラーメン店(中華そば屋)が多く残っている。
いわゆるグルメ系ラーメンの店は無いが、
古くからの店はそれぞれ昔からの味を守り抜いていて美味しい。

この道がラーメンストリートとして成功するには
それらの店を凌ぐだけものを持たなければいけないだろう。
道は短いものの、成功までの道のりは遠い。
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要町 粟島神社

2015年02月15日 | 徒然
池袋の隣町、豊島区要町の粟島神社。
ここは新田義貞の祈願所として知られ、弁天社として
昔から村民の信仰を集めていた。

境内には池があって、この池が谷端川という神田川水系の川の
水源となっている。

要町付近は、この川の谷頭になっていて
北側の尾根には千川上水が流れ、南へ広がる浅い谷には
谷端川が流れ出ていた。

谷端川は南下した後、西武池袋線椎名町駅付近でU字に曲がり
山手通りに沿うように北上する。

現在はほとんど暗渠となり、下水幹線となってしまった谷端川だが
粟島神社の池には、今でもと水をこんこんと湛えている。
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山手線とトンネルの話

2015年02月14日 | 徒然
山手線の外回り電車に乗って、駒込から田端へ向かうと
電車は勾配を登って行き、右側の貨物線と高低差ができると
山手線唯一の踏切、中里第二踏切を通過し、左へカーブする貨物線を乗り越すと
切り通しを右にカーブする。


(駒込駅から田端駅方面を望む)

この切り通しは、赤羽から王子、上野へと続く台地で
田端から日暮里にかけては道灌山と呼ばれている。


(山手線と山手貨物線)

貨物線は現在、湘南新宿ラインとして旅客列車も走る線路になってして
山手線を潜ったあと、すぐに中里トンネル
という、
この台地の下を通るトンネルに入り、上中里付近で東北本線(京浜東北線)と並んで北を目指す。


(左下が山手貨物線中里トンネルの坑口)


実は、山手線が開業した頃の線路は、このトンネルの手前まで
山手線そのものの線路で、現在の山手線の車窓の右側の丘、
つまり道灌山の下を右にカーブしながら切り通しを進み
途中、短いトンネルで通過していた。


(旧線取付部付近)


当時の遺構は、山手線外回りの右車窓でも確認できる。
レンガ造りのトンネルの坑口である。

このトンネルは、大正14年に山手線が貨物線との複々線にった際に、
現在の山手線の線路へ切り替えられ不要になった。


(明治末期~大正時代の地図)


(山手貨物線分離後も、切り通しは残されていた)

その後、戦災瓦礫で埋め立てられ、法面は土砂崩れ防止のために
コンクリートで固められたが、トンネル坑口の上部は
今でも顔を覗かせている。


(道灌山トンネルの坑口と山手線)


山手線がこの切り通しを抜けると、縄文海進期の沖積平野が眼下に広がる。
新幹線の高架が若干邪魔に感じられるものの
今でも山手線随一と言っていいほどの絶景である。
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