椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

ヒントを求めて その5

2021-01-10 16:15:22 | 高齢化社会

何度か記事にして参りましたが、所沢・山口地区文化祭はヒントがたくさんあるものとして感じられます。

昭和30年代から続けられてきたとのことで、若い方たちもこの中からでもヒントを得ていただければと思います。

→ こちら

共同作業というものは、思いのほか楽しいものですね。

書道の加無木先生が一昨年亡くなられましたが、先生の思い出とともにこの山口地区文化祭は貴重なものとしてあります。

高齢者は若い人たちにさまざまなヒントを残していかなければならない、と先生に教わった気がいたします。

先生の笑顔のおすそ分けをどうぞ。


2020年11月 神戸へ その7

2020-12-17 17:47:05 | 高齢化社会

11月27日はお昼にヘルパーさんが来られるということで、デパート阪急三宮店の地下で買い物をしてから義姉のところへタクシーで向かいました。

もうすぐの踏切でチョコレート色の阪急電車が停まっていて、通行止めだとのこと。

回り道がよくわからなかったのですが、なんとか到着。

ヘルパーさんは義姉を上手に動かして、やはり介護のプロの技術があるのだとわかりました。

こういった技術もなく、家事も不得手な男性などが介護を担うとすれば、介護されるほうもたいへんなことになりそうです。

主人の場合は病院の様子から認知症になってしまったかと思いましたが、なんとか回復したので助かりました。

仮性の認知症といったことからの回復ができる場合がありそうに思われます。

 

しかしまた、部分的に回復したりすると徘徊があったりする?

認知症についての研究が介護従事者によってされていって、回復例が増えていくこともあるのでは?

転倒によって起きる硬膜下血腫が原因で起きる認知症的症状は治る場合があるので、疑われる場合はその検査はしてほしいと思います。

Sさんという隣家との境界の塀が壊れてしまっていたため、折半で修理をお願いしていたのができていて、Sさんにご挨拶に。

今の時代はメールで写真などを送ってもらえて、ありがたいことでした。

義姉の年代の女性は、こういった修理なども相手にお願いするといったことに身構えるところがあったりします。

介護の若い人がどうして結婚しなかったの?と聞いたとか、デイサービスで一緒の高齢の男性が、体重を減らしたほうがよいといったのでその視線が嫌だとかでかなり怒っていました。

それで怒るの?と思えたりしますが、義姉が怒るのはなるほど、ということもあります。

その人の個性に合わせる介護心理学みたいなものができていくと、ありがたいと思います。

主張の聞き方を工夫すると、感情爆発を防ぐことができる?

あるいは後期高齢者の入り口あたりで、腹をたてずに済む会話術の訓練をするとか。(高齢の夫婦に必要?)

 

その後、たいへんお世話になっている従妹の娘さんご夫婦とお会いし、特養の施設の外側からの見学をして、今後について助言をいただきました。

主人の父親は広島出身で兄弟姉妹が多く、神戸の地震のときもさまざまにお世話になりました。ありがたいことだと思います。

長命で暮らし上手な方が多い家柄です。かなり古くからの神社だからでしょうか。

こういった縁というものは不思議なものに感じたりもします。

 

ホテルの窓から飛行機が見えました。

主人が亡くなる1年ほど前の2013年4月に、長男と一緒に3人で飛行機で神戸に来て義姉と会ったのを思い出しました。

主人はだいぶ衰えていて、義姉は元気だったんですが・・・・

 

 


2020年11月 神戸へ その5

2020-12-14 19:34:55 | 高齢化社会

戦前からの家が震災で全壊し、義姉が建てた簡素な小さな平家は、昔でいえば隠居所のような感じで、在宅介護に向いているといえるのかもしれません。

11月26日午後には、義姉の家へ。

ヘルパーさんはきびきびとした方で、ご自分の母親も同年齢でグループホームに入所しているとか。

手際よく洗濯をしたり掃除をし食事の支度をしてくださって義姉との関係はよいようです。

義姉については、そろそろ在宅では限界ではないかと考えておられるようでした。

 

介護の見直しで在宅介護推奨になったようですが、家族の介護者がいない場合には在宅介護の方が手がかかるように感じられたりします。

訪問介護では移動がたいへんではないか、と思われたりします。

移動の時間は労働時間には入らない?

介護ヘルパーさんたちの悩みについては こちら

スウェーデンの介護については こちら

公務員の介護職員が多いようですね。また、子どもが親の介護を引き受けることはないようです。

参考にする点は多いのではないでしょうか。

介護職の待遇の改善は、早急な課題のように思われます。

 

主人の在宅介護をしたときには、私は60歳代前半でした。

(記事は2014年1月から3月にあります)

主人については余命半年といわれていて(主人には知らせていませんでしたが)、延命治療はせず、また医療も点滴などはしないことにしていただきました。

主人は痛みに関してだけは何とかしてほしいと語っていましたが、その必要がなかったのはありがたかったと思います。

元気なうちに、夫婦で希望を話し合っておく必要があると思います。

在宅の介護ができそうだと思える場合には、ぜひどうぞ。多くの支えてもらえる仕組みがありました。

 

義姉の場合、寝ている時間が多くなっているようですが、何らかの痛みなどがあった場合は不安を感じるのではないか、聴覚がなく、電話もできないので、その点が問題の1つとして感じられます。

社会全体で、終わりよければすべてよし、のためには最期の看取りをどのような形にするのがいいのかを具体的に考える必要があると思います。

ホテルの周辺を散歩してみたいと思いつつ、なかなかできません。

BE KOBE の文字が写っていました。

もしかしたら、神戸のような土地柄なら、北欧のような合理的な介護といったことができるのかもしれない、と思ったりします。

合理的な高齢化社会のシステムのためなら、お金を提供するのを惜しまない方たちも多そうですから。


2020年11月 神戸へ その4

2020-12-12 21:44:08 | 高齢化社会

11月26日は、暖かくよいお天気でした。

ヘルパーさんが午後2時過ぎに義姉のところに来てくださる予定だったので、午前中、宝塚にある中山寺に出かけることにしました。

中山寺HPは こちら

急いで境内を歩き、お参りをしました。

子授けや安産のお寺だと思っていたのですが・・・・・

高齢化社会が進んでいるのをあらためて実感。

ほんとうに最期まで歩けることができればありがたい、と思います。

人工の筋肉か何かができれば 

 


2020年11月 神戸へ その3

2020-12-10 15:23:39 | 高齢化社会

義姉と2人になったとき、義姉に大いに話してもらうことにしてみました。

天井とか部屋に松の木が大きくなったり小さくなったりで見え隠れするのだとか。

それが特に怖いとかではなく、共存している話しぶりでした。

この幻視の症状から、レビー小体型認知症といわれるものなのか

それとも薬の副作用による症状なのか。→ こちら

 

主人が肺炎だかで入院したときに、鎮静剤が処方されて極彩色の幻視があったようで怖いと思ったようでした。

母の場合、幻視ではなく被害妄想がひどかったのは薬のせいであれば解決できたのかもしれないと思ったりもします。

父の場合は、山のような処方された薬を飲んで、加えて高価な民間薬を取り寄せて飲んだりしておりました。

認知症にならなかったのは不思議な気もします。それだけ飲めば相殺作用が働くとか?

 

義姉は、食べ歩きが好きだったので、一緒に中華に行って御馳走したいとか。

かなり以前の記憶がよみがえるらしく、最近の店とは違うようでしたが。

食欲はあって、ヘルパーさんが食べやすいように、宅配の弁当を整えてくれて冷蔵庫にいれておいたものを残さず食べているようでした。

1年前に、かかりつけの先生からもケアマネージャーの方からも家事ヘルパーさんの支援を勧められていて、私が説得しても、なんで自分の思う通りにできへんの?と怒っていた義姉とは人が変わったような。

ケアマネージャーさんが電話で様子を尋ねたときに、幸せそうですよ、と聞いていましたが、なるほど認知症でも穏やかであれば、幸福といえる?

義姉の人生の中では、晩年に多くの人たちの善意が感じられたこの期間があったことはありがたいことであったのだろう

などなど。

特養の申し込みは正しいのか、それともこのままでよいのか。

ホテルに戻ってぼんやり考えていました。

気に入った景色の窓があるホテルでの宿泊は、気分転換によいと思います。

ストレスや過労で入院したりすることを考えると、予防策としてもよいかも。

夫婦間のトラブルがあったときに離婚をしなくてもよいかもしれません。

この場合も気に入ったホテルで隔離ということは有効?

 

自分の中の不機嫌さを追放することは世界平和への道☆


2020年11月 神戸へ その2

2020-12-09 22:29:15 | 高齢化社会

青森の両親の用事で出かけるときには、10年以上も前に母が私にくれるといったお金で母名義の通帳をつくってもらって、それから交通費や宿泊費、土産、実家の食事の材料など買っておりました。

いちいち精算している余裕がなかったから合理的だと思っていたのです。

相続のときに、税理士さんから詳細を求められ、あわててしまいました。実務の体験が乏しいために、そういった会計の記録といったことが、自分の身辺に関してはいい加減になってしまっておりました。

実際のところ、ヘルパーさんが買い物を頼まれるようにはいかず、一緒の食事の材料、あるいは寒い時期に買う衣料品などについて運転のできない私は時間がなくて右往左往していたわけですから。

こういった家族の介護に関しても、厳しい会計のあり方が求められるとは想像もしていませんでした。

単なる確定申告とか自治会の会計の仕事などは問題なくしてきたつもりだったのですが、甘さが露呈してしまいました。

 

こういった経緯から、義姉に関しては、交通費や宿泊費、土産などは自分のお金を使うことにしております。

そのほうがお金を自由に使えるといった面があるので、精神的に楽なほうを選ぶことにしました。

 

ただ、一般的にそれでなくてもたいへんな遠距離介護などで、厳密な会計を考えなくてもよいためには?

相続人間の関係といったこともあり、何か合理的な会計のあり方(たとえば年間贈与の限度額の範囲なら詳細は問わないとか)があるといいのかもしれません。

 

初めてGotoトラベルを使って、何度か泊まっているホテルオークラ神戸に宿泊しました。

今回は3連泊でした。

無料のシャトルバスが利用できるのがありがたいです。

地域クーポンというのは、スマートホンを持っていないので使いませんでした。

このGotoトラベルとか地域クーポンというのは、急ごしらえの制度のせいか、こちらが高齢になったせいか、わかりにくく感じられます。

25日は、義姉がディサービスに通っている日なので、ホテルに荷物を置いてから、午後4時過ぎに義姉の家に出かけました。

義姉の家では、ケアマネージャーさんと親戚のTさんが来てくださっていました。

現在の状況と今後の方針について話し合いました。

いざ施設入居が必要になってもすぐは入れないということで、申し込みをお願いすることにしました。

熱心に面倒を見ていただいていて、私が神戸に住んでいたのなら、しばらくは、このまま在宅介護が続けられそうでしたが・・・・

やはり徘徊行動や排せつに問題が出てきたときにどうするか、ということがあるように思いました。

 

そのうちに義姉が帰ってきました。

何とか私がわかったようでした。以前よりも穏やかになったように感じられます。

どうにか歩けてトイレにも自分で行けますが、トレーニングパンツをはいていてぬれたりすると、その部分を剥がしてしまうのだとか。自分で脱いだりはできないようです。

幻覚があるようで、義姉の母親と同じような経過をたどっているようにも思います。

また寂しいという感情はより強くなっているようにも思われましたので、眠っている間に家を出るようにしました。

 

なお現在の義姉は介護3で、介護サービス利用の状況は

デイサービス:週3回    

介護ヘルパーさん(身の回り、食事作り、服薬、血圧測定など1時間半):週3回

訪問看護:週1回 

往診:月1回 

弁当の宅配:毎日   となって手厚くしていただいているようです。

 

 


2020年夏 その3

2020-09-08 22:22:01 | 高齢化社会

高齢になって、窓というものは大事だと思います。

人は最期に何を見るか 何を見たいか。

そんなことを書くと、О・ヘンリーの「最後の一葉」を思い出す方もおられるかもしれません。

 

ホテル青森は立地に恵まれ窓からの眺めがよいので、ほかの新しいホテルでは物足りなく思ってしまうのは高齢のせいだったりする?

 

若ければ、窓の景色を楽しむよりもあちこち出かけるほうがよいので、フットワークのよいホテルとか設備の良いホテルを選ぶかもしれません。

しかし、今回の感染でホテルで療養という場合など、窓から見える景色は大事ではないでしょうか。

 

精神病院や刑務所の窓から見えるものが殺風景であるなら、その拘禁は逆効果となりそうです。

植物や景観などで日本はもっと窓の機能を大事にするとよいかもしれません。

育児でも高層マンションの窓は避けたほうがよさそう。

 

窓という観点からも地方都市の有効利用を推進してほしいと思います。


2020年7月 青森へ その15

2020-08-11 15:10:22 | 高齢化社会

山が空気の関係からか近く感じられるときとそうでないときがあります。

母の相続について、何度か通っている理由の1つに不明金がある、ということがありました。

高額な引出しがあって、それが私が引き出したのではないかということに。

その引き出した日付は私が青森にいないときだったのですが、確実に立証といっても難しいものがあります。

 

通帳なども私が持っているわけではないので、調べようもなくだったのですが

帰りの新幹線の時間が迫っている中、その銀行に出かけてみました。

たまたま戸籍謄本などを持っていたので身分証明ができて、調べてもらうことができて・・・・

その引き出し分は母が定期預金としていたものだということがわかって一安心。

遠距離介護などではきっちりと会計を分けて不明分を作らない、といっても難しいものがあったりします。

食材・寝具の購入、電話代、交通費、宿泊代、・・・・・などなど。

神戸の義姉の場合と、青森の両親の場合では違う金銭感覚になるというか。

後見人制度があればよい、というわけではないようです。

大まかなガイドラインを示してあれば、と思ったりします。

社会の問題について、税金のありかた、考え方などは追いついていくのか

たとえば病院経営でも苦労したあげくの出費が不正扱いということになっていったりしたら

などと余計なことまで考えてしまいました。


6月9日のまち 東京・国分寺で その9

2020-06-26 10:18:22 | 高齢化社会

この長屋門は、隠居所として使われた後に、幕末から明治時代に分家の本多雖軒(すいけん)が村医を開業して、教育や書画など多方面に活動する拠点として利用されたそうです。

国分寺市教育委員会による「旧本多家住宅 長屋門・倉 見学のしおり」より

村医者・本多雖軒

 天保6年(1835)に国分寺村名主本多良助の四男として生まれた雖軒は、16歳の時に下谷保(しもやほ)村(現国立市)の医者本田覚庵(かくあん)のもとで医学・詩文・書画等を学び、その7年後には長崎へ遊学の旅に出るなど、充実した青年時代を過ごしました。

 覚庵のもとを離れた文久元年(1861)に府中宿で医者を開業し、小川新田(現小平市)名主の娘ちかと結婚すると、慶応元年(1865)には国分寺村へ帰郷します。長屋門を拠点に村医者を営んだ雖軒のもとには、小平・府中・三鷹市域の村々をはじめ、多摩川を越えて八王子や町田市域周辺の患者も通院していたようです。

 書家としても知られ、依頼に応じて多くの幟(のぼり)・扁額(へんがく)などに詩句や語句を揮毫(きごう)した他、自ら書画会を主催するなど、生涯を通じて書画に対する情熱を抱き続けていました。また、府中宿時代には剣術・国学・和歌も習得するなど、北多摩郡を代表する知識人としても活躍しました。さらに、村の教育にも熱心で、明治17年(1884)まで訓導(くんどう・小学校教員)と教導職(きょうどうしょく)を歴任し、同43年(1910)村医者を辞した後は、晩年まで書画や文筆活動に勤しみ、大正5年(1916)に82歳で亡くなりました。

 

こちらのタンスは薬を入れておくもののようです。


本多雖軒は森鴎外の父である森静男に髭なども似ています。

明治時代の医療や教育は、目立たないところで支えられていたという気がします。

 

現代の脆弱性といったものを変えるには、具体的な歴史で考えてみることが大事ではないでしょうか。

脆弱性に気づかずに忙しくしている、ということもありそうです。えっ、スマホのせいもある?

 


2019年11月 神戸へ その5

2019-11-17 11:55:54 | 高齢化社会

この5年ほどの間に、主人、父、母と亡くなって、さまざまに医療、看護、介護の方たちにお世話になってまいりました。

けっこう経験を積んできたつもりなんですが・・・・

主人の姉は私の母の1歳上で94歳で神戸で1人暮らしをしています。

独身で個人で高級な洋服を縫う仕事を長くしていた人です。

 

年齢も考え方もかなり違ううえに、高齢になって耳が遠くなり電話がほとんど使えず、なかなか細かいことが伝わらない状態にあります。

日常生活について、生協の調理済みの冷凍食品や生鮮品を利用して自分の食べたいものを食べているせいか、大きな病気にはならず、少しの距離は歩くことができます。

自立心のかなり高いタイプといえるでしょうか。

従妹の娘さんにあたる方が芦屋市にいて、様子をみていただくことができて助かっております。

 

さすがの義姉もあれこれ心配になってきたようで、来てほしいといわれていたのですが、私の方はしばらく青森行が続いていて・・・・

その状況をハガキで伝えていたのですが、あまり伝わっていないようでした。

母の病状などを事細かに伝えるのもどうかと思っていたせいもあったからなのかもしれません。

 

今回、ハガキに11月5日(火)午後4時に伺います、と前もってハガキを出していました。

前日の4日の午後6時ごろに電話が・・・・ 

「きょう来るはずの眞樹ちゃんが2時間待ってもまだ来ない。あなたは留守番の人?」

「眞樹子です、あした行きます」と大きな声で繰り返してもなかなか通じないで、こちらも焦ってしまいました。

 

翌日、ホテルに着いてすぐ出かけました。

認知症が始まったのかと心配しましたが、それほどでもなく安心しました。

ただ、カレンダーがあまり使われていないように思いました。

また、いつの間にか、義姉の頭の中で、前日のパニックは私のせいになっていたような・・・・

 

主人が、毎日カレンダーの過ぎた日に斜線を入れていて、さらに手帳に毎日記入していたのを思い出します。

 このごろはゴミ置き場にあったり曜日を間違えて出す方もあったりしますので、認知症予防の第一歩としての日付確認の習慣が必要に思います。