椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

7月12日のまち 上野にて その3

2022-07-31 17:55:00 | 歴史あれこれ

グラント将軍植樹碑というものがありました。

アメリカ前大統領であったグラント将軍については wikiから こちら

1880年(明治13年)に大統領を引退した後、夫妻で来日。上野で記念植樹をしたのだそうで、50年後の1930年(昭和5年)に渋沢栄一、益田孝が植樹した木の由来を記した碑が必要と考えて建設し、除幕式が行われたのだとか。

中央のレリーフは

この下にある文字は

"Let us have peace"

この us とは 具体的には、明治天皇や渋沢栄一、益田孝など財界人のほかに? 当時は総理大臣がまだいなかったことに気がつきました。

太政官制だったのですね。コトバンクから → こちら

グラント将軍は第18代大統領になる前は、南北戦争で北軍の将軍であったのですから、内戦の西南戦争が終わったところであった、山縣有朋や大山巌に対しての共感のようなものだったのでしょうか。

とはいえ、アメリカのハワイ併合が1898年であったことからすれば、山縣有朋あたりはハリネズミのような雰囲気を出していたかもしれませんね。

さらに50年も経ってからの碑の建設は、アメリカとの戦争をなんとか回避できないかという高齢になっていた渋沢栄一の哀願のようなものとして感じられたりします。

台東区の戦争被害は こちら

東京都で焼け出された人たちの少なからずの人たちが上野で暮らしていた・・・・

日本人が考える peace は甘かったのでしょうか。

答えを出すにはまだ時間が必要なのかもしれません。

 


7月12日のまち 上野にて その2

2022-07-22 12:28:02 | 歴史あれこれ

オランダ人であるボードワン博士像がありました。

アントニウス・フランシスクス・ボードウィンについて wikiから こちら

オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然がうしなわれるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本で初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園100年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。

病院よりもこのような大きな公園が必要だ、とボードワン博士が考えたことに

何か医療のヒントがあるのかもしれません。

そのほかの功績からも先見の明のある人物であったようです。

 


1月31日のまち 所沢 仏蔵院へ

2022-02-10 12:46:11 | 歴史あれこれ

所沢・山口にある仏蔵院まで散歩の足を延ばしてみました。

久しぶりです。

言葉の使い方といったものがさすがですね。

その刀でコロナ・ウィルスを退治してほしい・・・・

境内は静かで、自分と向き合うような気分になります。

修理の技術も特別のようです。

狭山湖に沈んだ村にあった、という歴史を持つこの寺は、ずっと昔からの歴史を感じさせる場所になっています。そのほかにもいろいろと・・・・

椿峰ニュータウンは、古代からの歴史を感じることができるちょっと不思議なまちになっております。


6月26日 川越氷川神社に出かけて その2

2021-07-09 13:55:22 | 歴史あれこれ

東京や埼玉で太田道灌はあちこちに姿を現すように感じられます。

しかし、神奈川にお墓があったりして・・・・・

系図などもよくわからなかったりなんですよね。

 

川越城や川越氷川神社も縁の地のようで、矢竹の植樹とともに

老いらくの身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残る白雪

という歌が献納されているとか。

ひょっとして、太田道灌は複数いたということなんでしょうか。

そのうちのひとりは謀殺されたけれど、残された人たちは武蔵野で草として生きたとか?

「道灌組」のような土木や建築、戦争、農業に強い集団がいた、ということを想像してしまいました。

 

武蔵七党などともどこかでつながっているような。

道灌の道とは、歴史の中にある道のようにも感じられたりします。

なお「メゾフォルテからあなたへ」で太田道灌についての記事をまとめたものは こちら

 

私のブログを読まれるときには PC版で読んでいただければ幸いです。


2020年7月 青森へ その14

2020-08-10 01:25:45 | 歴史あれこれ

善知鳥神社には死節碑と海軍の碑が並んでいます。

死節碑は、西南戦争戦没者慰霊のため1878年(明治11年)に建てられたとのこと。

1882年(明治15年)森鴎外が訪れています。

海軍の碑は1986年(昭和61年)に建てられたそうです。

それにしても烏頭が善知鳥に変わったのはなぜ?

善知鳥について Wikipediaでは こちら

室町時代の(一説には世阿弥作の)能の演目でその名前が知られたとか。

陸奥湾沿岸の外ヶ浜については こちら

西行や藤原定家の歌に取り上げられていた、ということもあっての「善知鳥」なんでしょうか。

今の長野県塩尻市に善知鳥峠という地名があるのが気になります。

このあたりでは南北朝時代に桔梗ヶ原の戦いというものがあったようです。→ こちら

 

芭蕉の「おくのほそ道」に随行したのは曽良でした。→ こちら

宗良親王の行方について示したいということでもあったのでしょうか。

 

南北朝問題は、日本にとってずっと深層にあるもののようです。

見えないところで煽られて戦争への道に踏み込まないようにするべきだと思います。

 


2020年7月 青森へ その8

2020-07-26 01:40:09 | 歴史あれこれ

青森の歴史の中で、1876年(明治9年)と1881年(明治14年)の明治天皇の巡幸は大きな出来事であったようです。

国立国会図書館デジタルコレクションに「明治天皇青森御巡幸記」があってその詳細がわかります。

当時の青森の人たちが何千人も集まってさまざまな行事を繰り広げたとのこと。

もしかしたら、一行にとっては、他での歓迎を受けてきての疲れの中、暑いときに長時間の式典などでは・・・・・

と想像を広げてしまいます。

かなり長期間の準備がされたようで、オリンピックや国体のようなものであったのでしょうね。

記念碑がありました。

第1回目のときに、会津藩のちの斗南藩出身である広沢安任という人物が、随行してきた大久保利通が明治政府の要職への仕官を勧めたのを断って、今の三沢市での牧場経営を続けることを選んだのだという話があります。

広沢安任とは こちら

森鴎外「西周(にし・あまね)伝」に、広沢安任が著した「開牧五年紀事」に福沢諭吉と西周が序を書いた、との記述がありました。

幕末の藩士たちの交流の中で、広沢安任は信頼される存在であった、ということでしょうか。

そういう話を知ると、元気が出るような気がしてきます。

 

 


2020年7月 青森へ その5

2020-07-22 22:39:13 | 歴史あれこれ

青森市福祉増進センターという建物が気にかかって・・・・ 

この建物は、青森市公会堂の跡地に1997年(平成9年)に建てられたものであるけれども

青森市公会堂の面影が前面にデザインされたものだとか。

青森市公会堂は1927年(昭和2年)5月21日に秋田雨雀と片岡鉄兵の講演会が行われたときに、芥川龍之介が北海道の講演旅行の帰途青森に立ち寄っていたため、出演を依頼され、急遽登壇したのだとか。その2か月後に芥川龍之介は自殺してしまいました。

太宰治は旧制弘前高等学校の1年生でしたが、このときに講演を聞いたのかどうかはよくわからないようです。

ただし、太宰治は7月11日から20日ごろまで上京していたそうなので芥川龍之介と会っていたかもしれません。

もし会っていたなら、芥川龍之介は太宰治の文才とともに情報収集力といった資質を見抜いたのではないでしょうか。

 

また、1937年(昭和12年)にはヘレン・ケラー女史がこの公会堂で講演したのだとか。

「ここは快い潮・・・・磯の香りがして海辺のすんだ空気の街であることが、と伝わってきます。」と青森の印象を話したそうです。

この講演会も芥川が少しだけ登壇した文学講演会も超満員だったとか。

戦前の青森は物心ともけっこう豊かであったのかもしれません。

 

昨年などはクルーズ船がたくさん寄港して、これからの観光に希望を持っていた青森は、コロナ禍の影響を多く受け、ねぶた祭りも中止となりました。

粘り強い青森の人たちは、じっと我慢の日々です。

早く幸せと思える時間を取り戻せますように。


6月9日のまち 東京・国分寺で その7

2020-06-16 18:47:21 | 歴史あれこれ

医王山最勝院国分寺は、分倍河原の戦いで消失し、その後新田義貞の寄進で薬師堂が再建されたとか。

徳川幕府は薬師堂に領地を与えて保護したとのことですが、今回、薬師堂に立ち寄らずに残念(泣

何の下調べもなく、地図もなく出かけたもので・・・・

 

本堂は1733年(享保18年)に再建、現在の本堂は1987年(昭和62年)に改築とのことです。

境内に、万葉植物園がありました。

前住職の方が武蔵国分寺跡を訪れるひとのためにと万葉集」に歌われた植物を約160種も例歌とともに展示してくださったのだとか。

目につくところに、ところづらがありました。所沢の地名の由来の植物です☆

万葉集の歌は

皇祖神(すめろぎ)の、神の宮人(みやひと)、ところづら、いや常敷(とこしく)に、我れかへり見む

ところづらについて 

①「野老(ところ)」のつる 

② (枕詞)同音を重ねて「常(とこ)しく」に、またつるをたどって「野老」を掘ることから、「尋(と)め行き」にかかる

 

所沢に薬師の道があったりしたとかなので、「尋め行き」というのは医師や薬を求めて、ということでしょうか。

それとも歴史上ので足跡など尋ね人のようなことでもあるでしょうか。

 

 


6月9日のまち 東京・国分寺で その6

2020-06-16 16:25:03 | 歴史あれこれ

武蔵国分寺跡の北に少し行くと、医王山最勝院国分寺という真言宗豊山派の寺がありました。

その国分寺の楼門は、東久留米市の米津寺から明治28年(1895年)に移築されたものだとか。

この楼門もまた、何か語りたい雰囲気を持っているように思われました。

この楼門があったという米津寺(べいしんじ)について こちら

米津出羽守田盛については こちら

その父である米津田政は こちら

 三河以来の譜代の名門で徳川家の信頼が厚く、江戸北町奉行を20年余りも務め、江戸幕府初期の治安維持に力を発揮したようです。

 別名を柄木田勘兵衛 勘繰ると 唐木田(大陸出身を想像させて強面演出といったことも?)

 その中で、大鳥逸平事件というものでは、自分の息子の1人も取り締まりの対象になり、津軽藩!にお預けになったのだとか。

 大鳥逸平については こちら     旗本奴とは こちら

このほかにも、調べると多くのエピソードが見つかります。

米津氏一族は、徳川家の戦いで戦死した者もいて、江戸時代になって重用されたこともあって、現代では名前の検索で芋づる式に細かい歴史がわかってくる貴重な存在といえます。

江戸の防衛がすこしわかってくるような。

狭山・天岑寺で、旗本小笠原一族についても、同じような感想があります。→ こちら

なぜ、私はここに? とすぐ妄想モードに。

その人たちがもしかしたらゆっくり休んでいられないとか?