椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

2020年7月 青森へ その5

2020-07-22 22:39:13 | 歴史あれこれ

青森市福祉増進センターという建物が気にかかって・・・・ 

この建物は、青森市公会堂の跡地に1997年(平成9年)に建てられたものであるけれども

青森市公会堂の面影が前面にデザインされたものだとか。

青森市公会堂は1927年(昭和2年)5月21日に秋田雨雀と片岡鉄兵の講演会が行われたときに、芥川龍之介が北海道の講演旅行の帰途青森に立ち寄っていたため、出演を依頼され、急遽登壇したのだとか。その2か月後に芥川龍之介は自殺してしまいました。

太宰治は旧制弘前高等学校の1年生でしたが、このときに講演を聞いたのかどうかはよくわからないようです。

ただし、太宰治は7月11日から20日ごろまで上京していたそうなので芥川龍之介と会っていたかもしれません。

もし会っていたなら、芥川龍之介は太宰治の文才とともに情報収集力といった資質を見抜いたのではないでしょうか。

 

また、1937年(昭和12年)にはヘレン・ケラー女史がこの公会堂で講演したのだとか。

「ここは快い潮・・・・磯の香りがして海辺のすんだ空気の街であることが、と伝わってきます。」と青森の印象を話したそうです。

この講演会も芥川が少しだけ登壇した文学講演会も超満員だったとか。

戦前の青森は物心ともけっこう豊かであったのかもしれません。

 

昨年などはクルーズ船がたくさん寄港して、これからの観光に希望を持っていた青森は、コロナ禍の影響を多く受け、ねぶた祭りも中止となりました。

粘り強い青森の人たちは、じっと我慢の日々です。

早く幸せと思える時間を取り戻せますように。


6月9日のまち 東京・国分寺で その7

2020-06-16 18:47:21 | 歴史あれこれ

医王山最勝院国分寺は、分倍河原の戦いで消失し、その後新田義貞の寄進で薬師堂が再建されたとか。

徳川幕府は薬師堂に領地を与えて保護したとのことですが、今回、薬師堂に立ち寄らずに残念(泣

何の下調べもなく、地図もなく出かけたもので・・・・

 

本堂は1733年(享保18年)に再建、現在の本堂は1987年(昭和62年)に改築とのことです。

境内に、万葉植物園がありました。

前住職の方が武蔵国分寺跡を訪れるひとのためにと万葉集」に歌われた植物を約160種も例歌とともに展示してくださったのだとか。

目につくところに、ところづらがありました。所沢の地名の由来の植物です☆

万葉集の歌は

皇祖神(すめろぎ)の、神の宮人(みやひと)、ところづら、いや常敷(とこしく)に、我れかへり見む

ところづらについて 

①「野老(ところ)」のつる 

② (枕詞)同音を重ねて「常(とこ)しく」に、またつるをたどって「野老」を掘ることから、「尋(と)め行き」にかかる

 

所沢に薬師の道があったりしたとかなので、「尋め行き」というのは医師や薬を求めて、ということでしょうか。

それとも歴史上ので足跡など尋ね人のようなことでもあるでしょうか。

 

 


6月9日のまち 東京・国分寺で その6

2020-06-16 16:25:03 | 歴史あれこれ

武蔵国分寺跡の北に少し行くと、医王山最勝院国分寺という真言宗豊山派の寺がありました。

その国分寺の楼門は、東久留米市の米津寺から明治28年(1895年)に移築されたものだとか。

この楼門もまた、何か語りたい雰囲気を持っているように思われました。

この楼門があったという米津寺(べいしんじ)について こちら

米津出羽守田盛については こちら

その父である米津田政は こちら

 三河以来の譜代の名門で徳川家の信頼が厚く、江戸北町奉行を20年余りも務め、江戸幕府初期の治安維持に力を発揮したようです。

 別名を柄木田勘兵衛 勘繰ると 唐木田(大陸出身を想像させて強面演出といったことも?)

 その中で、大鳥逸平事件というものでは、自分の息子の1人も取り締まりの対象になり、津軽藩!にお預けになったのだとか。

 大鳥逸平については こちら     旗本奴とは こちら

このほかにも、調べると多くのエピソードが見つかります。

米津氏一族は、徳川家の戦いで戦死した者もいて、江戸時代になって重用されたこともあって、現代では名前の検索で芋づる式に細かい歴史がわかってくる貴重な存在といえます。

江戸の防衛がすこしわかってくるような。

狭山・天岑寺で、旗本小笠原一族についても、同じような感想があります。→ こちら

なぜ、私はここに? とすぐ妄想モードに。

その人たちがもしかしたらゆっくり休んでいられないとか?


6月9日のまち 東京・国分寺で その3

2020-06-12 13:15:21 | 歴史あれこれ

僧寺伽藍中枢部です。

               

金堂解説板から

発掘の様子です。

版築とは こちら

8世紀半ばにこのような大きな建築物を建てる技術があったとはびっくりです。

 

大きな建築物の跡というものは、建物やそこにいた人物たちを想像して・・・・・

遠い記憶があるがごとくの気分になってきます。


6月9日のまち 東京・国分寺で その1

2020-06-10 23:31:02 | 歴史あれこれ

国指定史跡 武蔵国分寺跡は JR国分寺駅から徒歩約20分、JR西国分寺駅から徒歩約15分のところにあります。

暑い日でしたので、国分寺駅からタクシーでまず七重塔跡へ。

左下隅の写真です。このような配置になっていたようですね。

741年、聖武天皇によって国分寺建立の詔(みことのり)が発布され、造営に20年ほどがかかったとか。

武蔵国内の全郡が関わったようです。

沈黙というよりも何か語り始めたい気配が・・・・・


スペイン風邪 検証

2020-05-07 10:00:00 | 歴史あれこれ

スペイン風邪について Wikipediaから こちら

現在では、PCR検査というものが有用だとのことです。

グローバル化により、各国の新型コロナウィルスへの対応がすぐ伝わってきて

むしろ日本の現状がわからないように思われたりします。

新型コロナウィルスは当初は既往症のある高齢者だけが注意すればよいみたいなことでしたが、

変わり方が早いということも特徴なのでしょうか。

油断できないウィルスなのかもしれません。

 

PCR検査を増やせ、という声が上がっていて当然のことだとも思います。

ただ、韓国の検査の様子を見ると完全防備で検査室なども2重の扉となっていて機械化もされています。

医療従事者はズボンや靴もしっかり防護、ゴーグルなどもしていたりしますが・・・・・ 

韓国は以前の体験から、ウィルスについての準備をしていた、と思われます。

 

日本の場合、若い医療従事者に対しての防護が不十分なまま、検査を増やすのは問題でないでしょうか。

スペイン風邪の初期段階で、医師や看護師たちの感染が防げなかった、ということが教訓のようです。

今年は矢車草(最近ではヤグルマギクだそうですが)気になっております。

ウィルスに強い働きでもある?


北斎 富嶽三十六景 から つづき

2020-05-02 12:41:29 | 歴史あれこれ

安政東海地震について、大津波とロシア船に関する興味深い記事が下田市HPにあります。

→ こちら

日本に開国を迫る外圧といったものがさまざまにあった、ということでしょうか。

それが「神奈川沖 浪裏」での白い雲の形で表現されているのかもしれません。

幕末の歴史についてはほとんど知らないままになっていて,

激動のときに生きた人たちを多く知ることは大事だと思われます。

 

ロシア使節の提督プチャーチンについては こちら

幕府側で交渉にあたり、プチャーチンに高い能力を認められたという川路聖謨(かわじ きよあきら)については こちら

川路聖謨は慶応4年3月15日(1868年4月7日)に割腹のうえピストル自殺を遂げたのだとか。

この日は江戸城への官軍による総攻撃の予定であったそうです。

川路聖謨のこの自殺は、阿南 惟幾(あなみ これちか) あるいは三島由紀夫 といった人たちの自殺と同じく考えるのは間違っているかどうか。

内乱を防ぐためにさまざまな人たちがいたのだ、と気づいたりします。

歴史は小説やドラマのようにわかり易くはないもので、もっと重厚で人間の放つ光を感じさせるものだ、と思われたりします。

今の時代の不条理さを少しでも減らすために、歴史を利用することができれば・・・・・

 

なお、この川路聖謨は森鴎外へとつながっていくように感じられたりします。記事アップの予定ですので「メゾフォルテからあなたへ」でどうぞ。

スミレというのは逆境を好むんでしょうか?


2月19日のまち その5

2020-03-04 10:00:08 | 歴史あれこれ

庚申塔の真剣な祈りの姿のせいで、ちょっと道草をします。

18世紀前半の日本はどうであったのでしょうか。

1707年に記録に残る日本最大級の地震という宝永の地震があったとのこと。→ こちら

  南海トラフ沿いの巨大地震ですね。津波も噴火もあったようです。

その復興のために、紀州藩主であった吉宗が8代将軍に抜擢されたということのようです。

  吉宗による享保の改革は こちら

1741年の「元文の黒船」すなわちロシア帝国の探検船は、地震被災後の日本を視察にきたのではないでしょうか。

  吉宗による倹約令などにより、日本は魅力がなかったかもしれませんね。

1742年には、寛保江戸洪水が起きたようです。 → こちら

  当時のロシア帝国がスウェーデンやプロイセンなどと戦っていたことは日本にとって幸いであったのかもしれません。→ こちら

公事方御定書(くじがたおさだめがき)などは、きめの細かい治安対策だと感じられます。 → こちら

吉宗は続いた大災害の復興に明け暮れた一生だったようです。

ひょっとして、飛鳥山の桜は自分の息抜きでもあったのでしょうか。

鳥居のしめ縄からの連想ですが

禍福は糾(あざな)える縄のごとし

―― 災いと幸せは表裏一体のようにやって来る

物事に動じないためには、そう考えるとよいのかもしれませんね。


12月19日のまち 神戸・北野へ〔7〕

2020-01-05 19:03:24 | 歴史あれこれ

風見鶏の館の内部です。重厚な感じがします。

貿易商であったゴットフリート・トーマスの一家は、1905年から1914年までの10年ほどを過ごしたようです。

ゴットフリート・トーマスはドイツ・コブレンツ(当時はプロイセン)出身とのことで、1914年に愛娘エルゼの進学のためドイツに一時帰国して日独戦争(第一次世界大戦)が勃発。

 

 

 

高齢になったエルゼがこの館を訪れたようです。

 

また、この館を設計したというゲオルグ・デ・ラランデについては こちら

ラランデは早逝し、その妻の再婚した相手はのちにA級戦犯として獄中死した東郷茂徳であるとか。

東郷茂徳については こちら

大きな古い館の扉の向こうには思いもかけない景色がありました。


12月19日のまち 神戸・北野へ〔5〕

2020-01-02 01:35:41 | 歴史あれこれ

神戸・北野天満神社の入り口には急な階段があったのですが、さらに裏手にはまだ上りの道がありました。

菅原道真のよく知られた歌の碑がありました。新しいもののようです。

 

 

海が見えます。秀吉同様に清盛にも 夢のまた夢 という気持ちがあったのかもしれません。

遠くから撮ったものです。

 

 水天宮が祀られていて、さらに上への道は通行止めになっていました。

 

ふと平清盛の墓、それとも菅原道真の墓の意味合いがあるのかもしれない、と思ってしまいました。