私はスポーツもしないし、無芸並食なんですが、特技かもしれないと思えるのは
本棚から目についた本を取り出し、パッと開くとそこに気になっていた課題のヒントがある、ということです。
なぜ、日本が無謀な戦争へと向かったのかについて
目についた本が 勝田龍夫著『「昭和」の履歴書』 文藝春秋 1991年
開いたページに
・「元首相、閣僚、高位の外交官、宣伝家、陸軍の将軍、元帥、海軍の提督及大臣等より成る現存の二十五名の被告全ての者から、我々は一つの共通した答弁を聞きました。それは即ち、彼等の中の誰一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります」
キーナン主席検事の最終論告である。ニュールンベルグ裁判で、例えばゲーリング元帥は、「余は100パーセントの責任をとらねばならぬ」と堂々と自分罪を認めたが、東京裁判では、職業柄もっとも明快な答弁をするはずの軍人たちが曖昧だった。
・「日本という国にては一個人単独にて事を為せば必ず障礙を生ず、集団の力を借るときは法を犯すも亦容易なり・・・・・・滑稽なる国と謂うべし」
「元来日本人には理想なく強きものに従い其日々々を気楽に送ることを第一となすなり」
永井荷風の時局観である。昭和十四年と十六年の日記だけに、評価できる。
・評論家の林達夫は、「私は・・・・・・怪物と狂行いとから身を隔離する自由、そし幾坪かの畑に蔬菜をつくるとともに、庭前の一本のバラの木にせめて少しばかりの花を咲かせたい自由を確保しようとする以外に、何の希望も抱かなかった」といい、清沢冽も「暴力ほど恐いものはない、それは自分ではどうにもならないから」と嘆いていたが、知識人の生き方には、女を買い歩く荷風と同様に、「怪物と狂行」に立ち向かおうとする姿勢は見られなかった。
しかし、平和に対する罪で裁かれた二十五名のA級戦犯が「誰一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかった」というなら、誰が集団で「法を犯す」ことになったのか。
・「暴君治下の人民は、多く暴君よりも更に暴である。暴君の暴政は、しばしば暴君治下の人民の欲望を満足させることさえできない」
魯迅の言葉だが、たしかに開戦直前から東条内閣のころにかけて日本の国民は勇ましく、新聞も「ひじきの塩漬で国難に処せん・・・・・・待つところは、”進め”の大号令のみ」などと連日咆哮していたし、またサイパンが陥ちてB29が日本上空に姿を見せるようになっても、国民は個々としては軍の勝利の虚偽に気付きはじめていたものの、全体としてはファナティックな空気をかもし出しており、結局は聖断という上からの命令によってしか終戦を実現できなかった。
・最後の元老だった西園寺公は、こんな国民の様子を眺めて、「国民の知識が低いし、国民が低調過ぎる。これまで一体何を教育してきたか。これも明治以来の教育の方針が悪かったんだな」と絶望しながら死んでいくのだが、西園寺公のこの嘆きは、今日の日本人にも当てはまる。
・「大衆が支配的になる傾きをもつ社会においては、社会的構造の中に統合されていない非合理性が社会的生活の中に押し入るであろう」
マンハイムの言葉である。
とありました。
著者である勝田龍夫は日本債券信用銀行頭取となった人物であるとか。→ こちら
日本債券信用銀行については こちら
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「令和」の時代を迎えて、みそぎが済んだ、遠慮なく世界へと雄飛しよう、ということではなく
平和を語る教訓を持つ国として節度を持った行動しよう、ということでありますように。
というわけで、厚かましく、連休中のおススメは ブログ「メゾフォルテからあなたへ」です。