椿峰のまち

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2019年11月 神戸へ その9

2019-11-26 18:47:13 | 歴史あれこれ

【神戸から近江八幡へ】

八幡山ロープウェーを降りてから、けっこう急な上りの道がありました。

足の不自由な方や肥満の方はちょっと無理そうな道だったりしました。

 ウィキペデア「八幡山城」から 一部抜粋

・八幡山城(はちまんやまじょう)は、滋賀県近江八幡市宮内町周辺(近江国蒲生郡)に存在した日本の城(山城)。

羽柴秀次の居城として知られる。

別名 八幡城 近江八幡城 

城郭構造 放射状式連郭山城と居館

天守構造 不明(天守台あり:現存せず)

築城主 豊臣秀吉 豊臣秀次

築城年 1585年 (天正13年)

廃城年 1595年 (文禄4年)

・豊臣秀吉は八幡山城を安土城に替わる近江国の国城として、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城郭と麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注いだ。

しかし、八幡山は安土城と違い険しい山で、山の斜面を十分活用できず麓の居館が城の中心となった。

わずか10年のための難工事だったんですね。

(1585年に秀次は18歳で入城し、1590年に尾張・清州城へ移封、その後、京極高次が入城。

1595年に豊臣秀次は切腹して八幡城は廃城となり、京極高次は大津城に移ったとのこと。)

たびたびの土砂災害もあって、この石垣だけが(もしかしたら後世に修復もあった?)秀吉とその周辺の足跡を伝えるもののようです。

 

それにしても、わざわざこの急なところに城を?

1582年の本能寺の変のあと、引き締めをはかるための仕事の役割があった?

難工事のほうがよかったということもいえる?

 

この石垣を見ていると、八幡神への祈りといったものが感じられたりします。

見晴らしがよいところを求めたのは、心配性であったという秀吉は、西欧が植民地を求めてやって来ることを怖れたんでしょうか?


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