中国へ行くことを考えていた芥川龍之介が猿沢池を前に何を考えたのか・・・・
地図を前にあれこれ考えてみました。
明治時代から大正時代にかけて、大逆事件は大きな問題を投げかけたようです。
猿沢池は春日大社、率川神社を結んだ線上にあったりします。
またその線の延長上には垂仁天皇といわれる陵墓があります。
平城京をつくるのにたいへんな労力と時間をかけたわりには
あっさりと平安京へと移ったのはなぜなのか・・・・
藤原氏が日本を動かしていると示すために?
藤原氏は藤氏として唐出身であることを表明しているので
(真偽はともかく)この猿沢池(焼き討ちでも残る)とご陵で目に見える形で残そうとした?
などと考えてしまいました。
なるほどこういう哲学的な防衛の方法もあるのか・・・・
あ、これは大ぼらの類ですが、奈良時代の女性たちが
得意分野であったように感じられます。
垂仁天皇陵は卑弥呼もしくはそれに匹敵し、藤原氏につながる大王
のものなのかもしれない、と思ってしまいました。