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「一週間もてば一ヶ月もつ」
「一ヶ月もてば三ヶ月もつ・・」
「半年・一年・三年・・」
と辞めたくなるようなヤマがあるというので、
その区切り区切りには特に気を付けました。
時代は「昭和」から【平成】になりました。
入店して3ヶ月を迎えました。
「やる気」は衰えることなく、
パーマウィッグで一日何回もロッドを巻いていました。
隣の「照ちゃんラーメン」の大将にパーマモデルを頼みました。
「朝5時に仕事が終わるので、それからだったら構わない」とのことで、
月一回は始発電車に乗りました。
朝一番の駅は、まだ夜のように暗くて辺りは鳩だらけでした。
驚いた事に朝5時すぎの始発電車にも人がそこそこ乗っていました。
「みんな朝早くから頑張ってるんだなぁ~」
何だかうれしく、励まされました。
『照(てる)ちゃんラーメン』の大将は40代前半細身のショーケン似で、
高校生の息子と保育園の娘がいる広島出身の穏やかな人でした。
頭はグリグリのニグロパーマで、120本ものロッドを使わなければなりません。
朝6時から巻き始めても時間がかかり、
マスターがやって来る8時すぎでも、CUTに入ったばかりの状態で大変でした。
それからの毎日のレッスンはひたすら時間短縮に努めました。
やる気に満ちた僕はどんどん早くなります。
半年もすると大将のパーマも1時間半ですべてが終わるようになり、
その後、ターニングがOPENするまでの間、
大将と一緒に木津市場の買出しについて行く余裕も出来ました。
また、この頃になるとお店に後輩もできてCUT練習に入りました。
毎日のレッスンの他にも
月一回河内長野の老人ホームで行われるCUT講習に行きました。
いろいろなお店から若者が集まり、老人ホームのお年寄り達に練習台になってもらいます。
各店のマスター2人が持ち回りで指導してくれました。
1日で男女問わず5人位刈る事が出来ました。
ある時、一人の先生から声をかけられました。
空手の『カットサロン三四』に勤めていた『小柄でロン毛の職人さん』でした。
独立してお店を出しているのだそうです。
『長崎の先輩』の事を聞いてみましたが、僕が辞めて少しして辞めたそうです。
講習での頑張りが認められ、お店でも少しずつ学生などを刈らせて貰うようになりました。
ターニンの久里マスターは
心斎橋の『モモタロー』で修行したそうです。
当時の「モモタロー」は心斎橋を一世風靡していて、
そこのオーナーの息子は何と、ハリウッド映画特殊メイク第一人者、
『スクリーミング・マッド・ジョージ』でした。
高校生当時から変わり者だったらしいです。
ターニンの左隣には『清村写真スタジオ』がありました。
オーナーの『清村国男』さんは、
40代で背が高く、口ひげを生やしていて、ポルシェを乗り回すカッコいい人でした。
それもそのはず、
モデルを撮らしたら『東の立木(義浩)か、西の清村か』と云われる
関西を代表するカメラマンでした。
毎日のように外人や日本人のスタイル抜群のモデルが
挑発的な格好で店の前を横切るので、マスターと共に目で犯してやりました。
『清村さん』は、
撮影中は怒鳴り散らして非常に恐かったのですが、
普段はとても気さくで、たまにレッスン中の僕達を呼び出して
スタジオ内でコーヒーなどご馳走になりました。
清村「自分ら、分からんと思うけど」
「修行って素晴らしいねんで」
「地べたに這いつくばって、どんどんふまれて・・」
「お金では買えない大事な部分や」
清村さんの話は世間話から仕事の話まで説得力がありました。
清村さんの持論は『たくさん遊ばないとイイ仕事は出来ない』でしたが、
よく逆の事も言っていました。
清村「上田君は何の為に仕事してるの?ハ?食べる為?」
「・・オッサンみたいやな」
「僕はね、遊ぶ為や!!いっぱい遊びたいから仕事頑張るんや・・」
「海行ってサーフィンしてみ?楽しいで~」
「バイクで山行ってみ?気持ちいいで~」
「この【楽しい】【気持ちいい】が大事なんやで!」
ターニングの右隣には『照(てる)ちゃんラーメン』がありました。
大将と奥さんとパートの二人のおばあさんが働いていました。
二人のおばあさんが超スローで運んでくるラーメンは
大阪名物『親指のダシ入りラーメン』でした。
大将は「フライパンが重い」という理由でいつも嫌々ヤキメシを焼いていました。
しかし、そのヤキメシが凄く人気があったので、
重たいフライパンを休めるときはありませんでした。
大将「一人暮らしは大変やろ~?」
「ちゃんと食べてるのか?」
「しっかり食べんと仕事できんぞ」
僕が頼んだヤキメシはいつも大盛りで出てきました。
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スクリーミング・マッド・ジョージ
清村クニオさん
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