漢方薬剤師の日々・自然の恵みと共に

漢方家ファインエンドー薬局(千葉県)
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自分の根っこ

2010-10-23 | その他
先月の博多出張の折、思い切って小学生のころ住んでいたところに
40数年ぶりに足を運んでみた。

これまで引っ越しの多い生活で、流浪の民的というか、根なし草的というか、
まるで恥のかき捨てみたいに振り返ることもせず突っ走ってきた。
ところが、この年齢になってはたと周りを見渡せば、
幼いころの思い出を共有する人が近所にひとりもいない。
今の家族さえ知らない。自分の記憶もおぼろげ。
なんだか根っこが消しゴムで消されていってるようなすごい不安を感じるようになった。


急な坂が網目の迷路のように這う町。左に皿倉山。


近道するときに登ったすごく急な坂。麓に洞海湾が一望できる。
かつての道は土で両側は藪に覆われていた。
日本海側を向いているので、沈む夕陽が反射する湾は真っ赤に染まったっけ。

小学校がもうすぐという道に入り、登りつめた突き当たりは
コンクリートの壁がそそり立ち左右に道が分かれる。
そこは恐怖の場所だった。
当時はここに大きな柳の木があって枝がいく筋も垂れ下がり
暗くなるとサワサワと音がしてその黒い影がゆら~と揺れる。
習字の帰り道、すごく怖かった。
ここに幽霊が出るって噂を疑わなかったもんなあ。

その壁を見上げながらT字の道を左に回り込んで登ると、
あったー、小学校。

残念ながらちょうど1年前に建物が取り壊され更地になっている。
手前から、奥の木々が並んでいる側にL字に校舎が建っていた。
はるか向こうに白い裏門が残っている。

冷や汗ものの記憶は、給食当番で、脱脂粉乳の大きなミルク容器を抱えたまま
渡り廊下をつまずき、あたり一面白い海と化し、猛烈に落ち込んだこと
クラスの皆はひっそり(やったー)うれしそうな顔をしていたけど。
(ただしすぐに新しいミルクが届けられた)

正門には当時にもあったクスノキが当たり前のように立っている。
木にとっては数十年なんて大したことないのかもしれない。

正門と言えば、下校時の突然の大雨のとき。
(ああ、なんだかろくな想い出がない・・・)
お母さんたちが続々と傘を手に迎えに来る。
なのに、私は最後のひとりとなってもなかなか母は現れず、
妄想が広がった。
きっと継母なんだ、私は悲しい子供、どこかに本当のお母さんが・・・
半べそをかいていると、正門からのんきに傘をさしながら母が現われ、
ごくごくのんきに一笑に付された。

どんどん記憶がクリアになる。

さて、学校の前の道をさらに登った先に、我が家だった場所があるはず。
この道の左に急傾斜の小さな階段があったはずで、
人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段、まるで猫の抜け道、
土段と、ところどころブロックを重ねてて・・・

ざわっとする。ここだ・・・
コンクリートで固めてるけど、この幅は間違いない。

小学生の背丈では胸につくほど足を上げて登った階段。あの緑の植木のとこまで
登りつめたところの右側が我が家で、左側は祖父母の家があった。
踏みしめるように登ってみると、
あった・・・
しんとしているが、住んでいる人がいるようだ。
丁寧に住んでいただいてるようで全体的な形はほぼ当時のまま。

突然足がすくむ。
立っているその場所は二つの家を盛んに行き来した狭い路地だ。
地面から私の足へと記憶が登ってくる。

垣根のツルバラが満開の庭。向こうは坂の下に立つ家の屋根、その向こうは野っぱらの丘
この家は、貸家住まいを卒業して父母が初めて建てた家。
住み始めると堰を切ったように、鶏を飼い、鳩を飼い、ジュウシマツを飼い、小さな池には鯉を飼った。
さすがにこのメンバーが先住では、犬猫は無理だったけど。
というか、当時はまだ野犬がうろついていて、夜間に網をこじ開け
鶏が襲われたりする時代で、犬を飼うというのはもっぱら番犬という
感覚だったかもしれない。
庭には季節ごとに野菜や草花を植え、
縁側でスイカを食べれば、足元にスイカの幼い芽が次々と顔をだした。

我が家の家族4人と、元気な祖父母と、二人のまだ若い叔父たち。
わずか4年間だけど幼い子供の成長にとっては豊かな環境だった。

今は、父母も祖父母もひとりの叔父も旅立ってしまい、
兄弟も、もう一人の叔父も遠くに暮らしている。
なのに、ここにかつてと同じ坂道と家と庭がある。

だからどうだってこともない。他人にとっては退屈な話だ。
でも、弱り気味の根なし草にもひとつ、この記憶が拠り所になったような気がした。