流浪オヤジの探検日記

KOBEを拠点に各種イベントや名所・旧跡を見て歩き、紹介していきます。

大津島巡航「鼓海Ⅱ」

2016-04-06 | 旅客船・フェリー等
大津島での島内見学を終えて帰ります。
復路は、旅客船に乗船します。


大津島巡航「鼓海Ⅱ」


徳山港から大津島(4港)の間を就航しています。


旅客定員:150名


総トン数:59トン、乗組定員:3名


馬島港を出港しました。
ほんの一部でしたが、大津島を見学できたことに感謝です。


速力:20ノット


徳山港が見えてきました。


徳山港フェリーターミナルに着岸します。


下船します。


所要時間14分の船旅でした。(^_^)

大津島への移動において、お世話になりました。
ありがとうございました。<(__)>
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回天訓練基地跡

2016-04-05 | 史跡・旧跡
周南市大津島には、人間魚雷「回天」の発射訓練基地の跡があります。

当地は九三式魚雷の発射試験を行うためとして昭和14年に建設されました。
その後、九三式魚雷を改造した回天を扱うための必要な設備が備わっていることから当地が選定されました。


「回天運搬用トンネル」


整備された回天はトロッコで発射場まで運ばれ、搭乗員もトンネルを抜けて回天に乗り込みました。


調整工場(現在:大津島小学校、同中学校)から回天を運んだレール跡が残っています。


仲間へ手を振る回天の搭乗員


どのパネル写真を見ても胸が締め付けられるような気持ちになります。


トンネルを抜けました。


試験場の建物が見えます。


「魚雷発射試験場跡」


調整工場(現在:大津島小学校、同中学校)からトンネルを経由して運ばれた“魚雷”を天井クレーンで穴から海面に降ろされていました。


昭和19年9月1日、この地に回天訓練基地が開設され、回天の訓練が開始されました。


ここを基点として馬島や大津島を一周する訓練コースが設定され、多くの若者が回天の操縦訓練が行われました。
その訓練は終戦の日、昭和20年8月15日まで続けられたとのこと。

この地を訪れて回天記念館を見学した際と同じく、この史実を忘れずに後世へ伝えていくことが今を生きる私たちの義務だと感じました。
命をかけてくれた先人の思いを無駄にしないために。
ありがとうございました。 <(_ _)>
コメント (2)
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回天記念館

2016-04-04 | 博物館・資料館等
回天記念館は、山口県周南市大津島に位置する旧海軍回天搭乗訓練員の宿舎跡に建設された記念館です。

回天の搭乗員宿舎、訓練施設、組立て施設は、戦後、アメリカ軍により破壊されます。
山の中腹にあった宿舎跡には馬島小学校が建てられ、昭和40年までは同小学校が当地にありました。


「記念館沿革碑」
馬島小学校跡に回天記念館を創立し、昭和43年11月20日に開館しました。


「烈士石碑」
亡くなった搭乗員らの一人ひとりの名前を刻んだ墓碑が並んでいます。


「鐘楼」
この鐘は、戦艦「陸奥」の三番砲塔にあった“薬莢”の砲金約100キロを素材として鋳造されました。


「回天碑」


「英霊鎮魂」巨人軍監督・長嶋茂雄/平成八年三月一日


「浮きつ島鼓海を訪ふ」森重久彌/平成五年五月二十二日作


人間魚雷「回天」(模型)


回天は機密保全のため、『マルロク兵器』と呼ばれました。


回天の母体となった“九三式魚雷”は酸素魚雷といわれたもので、終戦まで秘密のベールに覆われていた高性能魚雷でした。


隠密性の優れ、爆薬を多量に搭載することができました。


各国の魚雷と比べ航続距離が遥かに長く、驚異的な威力を保有していました。


この九三式魚雷の中央部に乗員の操縦室等を装備されたのが“回天”です。


「回天推進装置の一部」
九三式魚雷の燃焼室及びシリンダー部並びに推進軸です。


回天を甲板に積んだ潜水艦は水深100メートル位まで潜入するので、回天がその水圧に耐えるために技術陣は改良に苦心したとのこと。


操縦系統の万全を期する等、整備関係員の苦労も大きく、多大な努力を要したとのこと。


「展示室」


室内は、人間魚雷「回天」に関わる遺品・資料の展示を中心に回天の歴史や時代の背景、当時の生活などをパネル展示で紹介しています。


回天搭乗員の遺書、軍服、写真、遺書などが約1,000点が展示されています。


昭和18年夏、日本の敗退が続く中、二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻しかないと、人間魚雷を構想します。


戦局は更に悪化、海軍省はついに試作兵器を完成させ、昭和19年8月に正式兵器として採用されました。


昭和19年9月、試験発射場のあった大津島に回天基地が開設され、全国から多くの若者たちが集まりました。


「潜望鏡」


「回天上部ハッチ」


「回天船内模型」(映画「出口のない海」撮影使用)


模型は直径1.25メートルで作成されていますが、実物は1.00メートルです。


回天に乗り込み、ハッチが閉められると、操縦する以外は身動きが取れないほどの空間です。


搭乗員は1名のみ。まさに暗く狭い中での孤独な戦いであったと思われます。


「伊58潜水艦」(模型・縮尺1/100)
回天搭載艦として、横須賀工廠で建造されました。
昭和17年12月16日起工、昭和18年10月9日進水、昭和19年9月7日竣工。
乙型潜水艦の最終建造艦でした。


回天記念館から大津島馬島港周辺の海が見えます。
この地において、全国から20歳前後の若者が集まり、毎日厳しい訓練を繰り返していました。
窮地に立つ祖国を守るため、多くの若者がここからら出撃していきました。

この見学を通じて、今を生きる私たちは、この史実を語り継いでゆかなかればならないと感じました。
命をかけてくれた先人の思いを無駄にしないために。
ありがとうございました。 <(_ _)>

このあとも島内を見学します。つづく・・・・(^_^)
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回天の島 大津島

2016-04-03 | 史跡・旧跡
大津島は、山口県周南市・徳山下松港の沖合い10数キロに位置する島です。

同島は、太平洋戦争末期に人間魚雷「回天」の訓練基地がありました。
回天(かいてん)は、旧海軍が開発した特攻兵器です。


「回天供養」


「回天の母 ~人間魚雷~」


「飛行科入口門」
旧海軍敷地から魚雷発射試験場へ通じる門です。


モニュメント「磊磊」(らいらい)
石に刻まれた文字は、心が大きく小事にこだわらないさまという意味。
囲碁棋士・藤沢秀行(故人)氏による書とのこと。


「お食事処 ひとやすみ」(大津島観光サービス)


「大津島ふれあいセンター」


「周南市立大津島中学校、大津島小学校、大津島幼稚園」


同中学校等の敷地は、回天訓練基地の兵舎や工場などの施設がありました。


回天関連施設「変電所跡」
調整工場の変電施設


回天関連施設「危険物貯蔵庫跡」
山腹を掘り込んで造られた爆薬等の保管所


回天関連施設「魚雷点火試験場跡」
火薬の調整及び試験施設


回天関連施設「階段」
搭乗員の訓練にも使用され、当時は「地獄の石段(階段)」といわれました。
なお、現在は通行できません。


周南市回天記念館休憩所「養浩館」


回天記念館に到着しました。

同館を見学します。当然ながら続きます。
~~ヾ(●ゝω・)ノ[。*○+゜*。○ヨロシクネ♪。*○+゜*。○]
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大津島巡航「フェリー新大津島」

2016-04-02 | 旅客船・フェリー等
徳山港フェリーターミナル(周南市)から大津島巡航「フェリー新大津島」に乗船しました。
同船は、徳山港から沖合い約10キロに位置する大津島(2港)の間を就航しているフェリーです。


標準積載車両数:大型車(8トン積)または中型乗用車6台


旅客定員:200名


航路地である「刈尾港」へ寄港します。


刈尾港に着岸します。


下船完了後、速やかに離岸しました。


目的地である「馬島港」が見えてきました。


乗船員による入港準備が始まります。


馬島港に到着しました。
所要時間44分の船旅でした。(^_^)


同船の特徴は、公共機関として離島航路に就航するため、移動の利便性、安全性の向上を促進する
『交通バリアフリー法』に対応した旅客フェリーとのことです。

この後は、大津島の各所を散策します。
つづく・・・・(^_^¥
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