回天記念館は、山口県周南市大津島に位置する旧海軍回天搭乗訓練員の宿舎跡に建設された記念館です。
回天の搭乗員宿舎、訓練施設、組立て施設は、戦後、アメリカ軍により破壊されます。
山の中腹にあった宿舎跡には馬島小学校が建てられ、昭和40年までは同小学校が当地にありました。

「記念館沿革碑」
馬島小学校跡に回天記念館を創立し、昭和43年11月20日に開館しました。

「烈士石碑」
亡くなった搭乗員らの一人ひとりの名前を刻んだ墓碑が並んでいます。

「鐘楼」
この鐘は、戦艦「陸奥」の三番砲塔にあった“薬莢”の砲金約100キロを素材として鋳造されました。

「回天碑」

「英霊鎮魂」巨人軍監督・長嶋茂雄/平成八年三月一日

「浮きつ島鼓海を訪ふ」森重久彌/平成五年五月二十二日作

人間魚雷「回天」(模型)

回天は機密保全のため、『マルロク兵器』と呼ばれました。

回天の母体となった“九三式魚雷”は酸素魚雷といわれたもので、終戦まで秘密のベールに覆われていた高性能魚雷でした。

隠密性の優れ、爆薬を多量に搭載することができました。

各国の魚雷と比べ航続距離が遥かに長く、驚異的な威力を保有していました。

この九三式魚雷の中央部に乗員の操縦室等を装備されたのが“回天”です。

「回天推進装置の一部」
九三式魚雷の燃焼室及びシリンダー部並びに推進軸です。

回天を甲板に積んだ潜水艦は水深100メートル位まで潜入するので、回天がその水圧に耐えるために技術陣は改良に苦心したとのこと。

操縦系統の万全を期する等、整備関係員の苦労も大きく、多大な努力を要したとのこと。

「展示室」

室内は、人間魚雷「回天」に関わる遺品・資料の展示を中心に回天の歴史や時代の背景、当時の生活などをパネル展示で紹介しています。

回天搭乗員の遺書、軍服、写真、遺書などが約1,000点が展示されています。

昭和18年夏、日本の敗退が続く中、二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻しかないと、人間魚雷を構想します。

戦局は更に悪化、海軍省はついに試作兵器を完成させ、昭和19年8月に正式兵器として採用されました。

昭和19年9月、試験発射場のあった大津島に回天基地が開設され、全国から多くの若者たちが集まりました。

「潜望鏡」

「回天上部ハッチ」

「回天船内模型」(映画「出口のない海」撮影使用)

模型は直径1.25メートルで作成されていますが、実物は1.00メートルです。

回天に乗り込み、ハッチが閉められると、操縦する以外は身動きが取れないほどの空間です。

搭乗員は1名のみ。まさに暗く狭い中での孤独な戦いであったと思われます。

「伊58潜水艦」(模型・縮尺1/100)
回天搭載艦として、横須賀工廠で建造されました。
昭和17年12月16日起工、昭和18年10月9日進水、昭和19年9月7日竣工。
乙型潜水艦の最終建造艦でした。

回天記念館から大津島馬島港周辺の海が見えます。
この地において、全国から20歳前後の若者が集まり、毎日厳しい訓練を繰り返していました。
窮地に立つ祖国を守るため、多くの若者がここからら出撃していきました。
この見学を通じて、今を生きる私たちは、この史実を語り継いでゆかなかればならないと感じました。
命をかけてくれた先人の思いを無駄にしないために。
ありがとうございました。 <(_ _)>
このあとも島内を見学します。つづく・・・・(^_^)