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抗体値

明日は血を吸われる日。
0.4まで下がってしまった抗体値、いったい「どんだけ~」


ビバ!サンバ! 「バラクルード!!」 オ・レ!

カム・バック! 「ヘ・ブ・ス・ブ・リ・ン!!!」



・・・・・・・
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川田龍平さん

薬害エイズ訴訟の原告団として、その中心として、お母様と共に闘ってい
た姿が今も鮮明に思い出される。

そして、その裁判で国を動かし、画期的な和解を勝ち取った川田さんが、
参議院議員になる。

川田さんは当選後のインタビューに「厚生労働省に物言える人になる」
と答えていたのが印象的だった。


移植手術の保険適用や薬の保険、高額医療費の問題や介護保険の問題、
それに、度重なる肝炎訴訟、これらを見聞きし、自分でも体験する時、いつ
も考えることがある。

それは、訴える側と取り決める側の温度差の問題だ。

訴える側はまさに生死を掛けた切実な願い。
それに対してその声を聞く側はどうか。

常に付いて廻るのは責任論と、金額的予算の話しばかり。

冷静に公平に、第三者的立場で物事を考えなければならないのは良くわか
るんです。
なんでもかんでも認めて、なんでもかんでも大判振る舞いでは立ち行かな
くなるのはわかるんです。

でも取り決める側の人間に、果たしてどれくらい弱い立場の人間がいるの
だろう。
我々一個人が声をあげたって、それをまともに聞いてくれる人間が、厚生
労働省という大組織の中に何人いるのだろうか。

自分が、自分の身内が癌で苦しみ、肝炎で苦しみ、エイズで苦しんでいる、
身に迫った危機感を抱ける人は何人もいないと思う。


川田龍平さん、死の恐怖に直面したあなたならきっとやってくれる。
川田さんの思想と行動力、そして何よりも全国に応援・支援してくれてい
る大勢の人がいる。


ワタシなんぞはせいぜいブログで愚痴ることくらいしかできないけれど、
応援くらいはできます。

是非とも弱者の代弁者になり、

「動けば変わる! 生きるって楽しい、と思える日本へ」

を実行して下さい。

http://www.ryuheikawada.jp
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母と子、実家に帰る・・・

もうかれこれ6年か7年になるだろうか、子供達がサッカー
を始め試合に追われ、そして妻が働き始めて、まとまった休みがまったく
取れなくなって。

・・・妻の実家は道東の北見。
今では高速を使って片道3時間半の距離だが、この6・7年一度も帰って
いない。

その間この病気になり、妻の実家に帰るどころの話しではなくなってしま
っていた。

妻の両親には自分の入院・闘病中には散々心配を掛けた揚げ句、何度もお
見舞いに来て貰っていたにもかかわらず、昨年の父の入院・手術や、
妻にとって二人切りの姉妹である実家の姉の胃癌の手術の時でさえ、帰し
てあげることができなかった。


昨年の入院中、一度だけ妻に言ったことがある。
「手術の時、帰ってあげなくていいの?」
「そりゃぁ、私が居てあげられれば一番いいんだろうけど、ここ離れられ
ないでしょう」

一言も「心配」ということを口では言わなかったが、どれだけ心配だった
かは想像が付く。


子供達にとっても、そこには同年代の従兄弟がいる。
1・2度子供達だけで行ったことはあったが、ワタシの両親とは同居して
いるので、子供にとって田舎といえるのは妻の実家だけだ。

きっと毎年、夏休みのたび、冬休みのたび、行きたかったんだろうな、と
思う。


今年は子供達のサッカーも落ち着き、妻も職場が変わり休暇が取れるよう
になった。
本当は車で、家族4人で帰る予定だったが、この前の入院で自分の限界を
知り、やむなく断念。
まだまだいつ入院することになるかわからないこの身では今年は無理。


それでもやっと帰してあげられる・・・

たったの5日間だけど、少しでも癒しになれば。

妻にも子供にも、この2年間は本当に苦労を掛けてしまった。

父の手術の時、姉の手術の時、病室のベッドの上で何もできなかった、何
も言ってあげられなかったのが情けなくてしょうがなかった。


あの時の気持ちは消えるものではないけれど、少しだけ肩の荷が降りたよ
うな気がする。

今頃はきっと、久しぶりに3人の病気のことは忘れて、つかの間の休日を
楽しんでいることと思う。

それとも看病の話しで盛り上がっているかな。
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さらば涙と言おう

又一つ、昭和の良き時代が終わったような気がする。

1970年、1980年代と言えば自分にとってまさに青春時代。
この時期のヒット曲の多くを手がけた阿久悠さんが亡くなった。

阿久悠さんのオフィシャルホームページを覗いてみて、あらためて驚い
た。
あの歌もこの歌も、いろんなジャンルのヒット曲がある。

「ペッパー警部」と「津軽海峡・冬景色」が同年に創られているのには
ビックリしてしまった。
そういえばピンク・レディーと石川さゆりが同じ歌番組に揃って良く出
ていたのを思い出した。


今の歌手・歌も好きだし、外国の歌も嫌いではないが、この頃の歌は、
いまだに歌詞が頭に残っていたりもする。

歌詞が大事にされていた時代なんだなぁと思う。


みなさんきっとそれぞれに、「これが一番」きっとある事でしょう。

「さらば涙と言おう」も好きだけど、

「センチメンタルな私小説(作曲・唄:大塚博堂)」

が一番好きです。
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