菩提樹の 花祭りやら 茶会やら
梅士 Baishi
昨日は恵光院の菩提樹の花祭りということで呼ばれもしないが
出かけたのであった。
いつもはひっそりとした寺だが、菩提樹の花の咲く頃は賑わって
いる。
まして花祭りということで大変な賑わいであった。
大半、そろそろ納骨堂かというお年寄りが多かったが、信心深
い人たちがたくさんお参りに来ていた。
宗教の賑わいというのは良いものである。
神や仏に集まってきた人たちは、なにかしら気心が知れている。
裸足の人が目について、はてなと思っていたのだが、遍路巡り
の功徳があるという地蔵がずらりと並んでいて、その一つ一つに
さい銭を入れ、拝んでいる人たちの足元は裸足なのだった。
今日は沢山の人が吸い込んでいたせいか、菩提樹の花の香り
を感じなかった。
思えば惜しいことをした。
貴重な香りである。
茶室では抹茶がふるまわれた。
崩れ鎮心流でいただいた。
思い通りにいただくだけのことである。
床の間には秀吉と利休の土人形が飾られていた。
茶代500円はするかと思っていたら、振る舞い茶なのだった。
仏の功徳とは有り難い。
さて、次に行くときは菩提樹の実が下がるころであろうか。
弘法大師空海が高野山を開き、四国霊場を開いてから1200年
の記念の年だという。
空海の足跡を追ってみたいものだ。
『曽野綾子という生き方』という守護霊インタヴューを読んだ。
その著作を読んだという記憶もないが、名前を知っているという
ことが不思議ではある。
初期の頃、幸福の科学を週刊誌的に批判した言論人として軽蔑
的に見てきたが、政治的には保守なので、女流、石原慎太郎とい
う感じで納まりの悪い人物ではある。
キリスト処刑の時代にそれを見れるところに生き合わせていたと
いう。
自分も洗礼を受け、それなりに信仰深かったと思うが、イエスが
幸福の科学に復活したことは大きな喜びであった。
それを素直に受け止め、感動したものである。
その点、懐疑的で幸福の科学に対してどうも本物らしいので悔し
いというような曽野綾子よりは霊的には開かれている。
『復活の時は今』という大講演会に降臨したイエス・キリストを認
められないキリスト者とは、やはり、イエスを見捨て、見放した罪を
背負った人々なのだろう。
しかし、一筋の信仰心が、幸福の科学を偽物だと言えない一筋
の誠実さを残しているのだろう。
イエス・キリストの復活を現代に見た自分ではあるが、もどかし
さが残る。
一仕事ができないという凡庸のもどかしさである。
民主的信仰にとどまっているということが、悔しいといえば悔しい
ことではある。
しかし、キリスト教徒であっても、幸福の科学を開祖した新し救世
主を認めることができ、そこに復活したイエス・キリストを認めること
ができるということの証明にはなっているだろう。
信仰とは真実に目覚めることには聡いものである。
しからざる者は、その信仰の曇りをぬぐい去ることだ。
「いつも、目覚めていなさい」というイエスの言葉を忘れてはなる
まい。
【 日本政治家の使命は大東亜共栄圏という責任にある 】
日本一国を未だに太平洋戦争の敗戦から抜けられず、独立宣言
さえもできないことに対して、政治家たるもの恥じるべきである。
現代日本の経済的存立基盤は東シナ海から中東に至るまでの
海のシルクロードと日本海および太平洋の安全にある。
集団的自衛権などというレベルにはない。
アジアの盟主としての責任と使命なくして、日本存立の意味はな
いと悟るべきである。
中国に対してもきちんと叱るべきである。
それができないというのは、政治を怠っているからである。
できない政治家は廃業すべきだろう。
気概ある後進に道を譲るべきである。
大東亜共栄圏こそは、ジャパニーズドリームの玄関である。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
幸福実現党応援隊・ 梅士党