龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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経済について考える(3)

2010年09月06日 23時23分45秒 | 社会
経済について考える(3) 

ちょっと横道にそれて、公務員給与水準の引き下げについて妄想してみる。

たとえば、今は公務員バッシングが盛んだ。
これは公務員以外の人はほぼ全員賛成する話題で、その図式自体はルサンチマンのはけ口みたいな道具になっている側面もあって、そのフレーム自体はいただけない、と思う。

私も末端の現場作業員とはいえ公務員の端くれだから、公務員の給与水準は民間より平均年ベースで200万円高い、という報道などを見ると、ああ明日から公務員の給与を200万円下げればいいのに、って、公務員以外のほとんどの人は思うんだろうなあ、とちょっと想像し、正直げんなりする。

資格のある専門職として30年やってきた経験からいって、とりあえず平均が違うんだから給与を200万円下げておけ、と言われて黙って引き下がるわけにも行かないしね。

しかし、そう突きつけられなければ、仕事をしてもしなくてもその平均水準の差はそのまま維持されていくこともまた、確かだ。

以前なら、人事院勧告は労働権の制限があったから、ほぼ「聖域」に近かった。しかし、今は労働組合が正規雇用の既得権益を守る硬直した団体、という文脈で捉えられているとするなら、その権利制限などという裏書きは、あってないも同然である。

ではいったい、公務員の正当な労働の評価は、どんな形でなされるべきなのだろうか。

池波正太郎は、「公務員なんてものは給料をたくさんもらったらダメなんだよ」と鬼平がらみのことでコメントしていた。

私も、自分の給与水準が下がるのは本当に困るけれど、公務員の給与を一斉に今の7割ぐらいにしてみるのは意外に面白いと思う。

そうなったら、仕事が好きじゃない奴はあきらかにあぶりだされてくるはずだ。
やっていられない、となって、有為な人材の半分は転職していくかもしれない。

残りは、圧倒的に力のない公務員のカスと、圧倒的に仕事が好きな公務員ヲタクが共存する、戦後すぐのデモシカ時代が擬似的に再現されるかもしれない。そしてそれは、必ずしも悪いことだけじゃない。
もしかすると、「給料も安いし、文句があるならいつでも辞めるよ」、っていうノリが、教育の「自由」の確保のためには大切かもしれない。
むしろ中途半端に安定した給料を取り払って、低いペイと高い志の方が、仕事は面白くなるのじゃないか。

その代わり、余計な仕事は一切なしで、勉強を教えることとか、生徒と遊ぶことに集中させてほしい。中途半端な100万200万を失う代わりに、好きな教育だけができるんだったら、安いものじゃないか……。

そんなことは、脳天気な無責任発言だろうか。

でもじゃあ、公務員たちは、自分の仕事がその給与水準で妥当だと、どうやったら証明できるだろう?
おそらく、それは無理な相談の部分が大きい。
公務員の仕事は、民間企業のようにはお金は稼げない。公共的な仕事はそろばんに乗らないことも多いからだ。

たぶんそれは現場の私たちによってではなく、きちんとした学問的裏付けのある公共事業学のシミュレーションによって判定されるべきことかもしれない。

だが、民間の企業とは違って、公務員は最初から「全体の奉仕者」という立場を職業として選んでいる。
公務員こそが、新しい「公共的なるもの」に対する敏感な精神を養って積極的に社会に向けて提案していくべきなのではないか?
たとえば教育にしても福祉にしても、手厚い市民サービスというのは、単なる一律のお仕着せでは本当に価値あるサービスにはならない。

といって、コストを上げては元も子もない。
アタマを使ってぎりぎり絞り出すように、他者が必要とするボールを投げることが公務員にどれだけできるか。

世迷い言も休み休み言え、と言われるだろうか。

ではだが、貧乏人の嫉妬を利用し、溜飲を下げるためだけの道具に公務員改革を利用するのでないならば、誰もが納得のいく公務員改革(霞ヶ関とかはどうでもいい。現場作業員の先端部分における公務員の硬直化をどうするのか)は、どんな形で行えばいいのか。


「シャドウワーク」(今時はそういう言い方ははやらないのかな?)を担うモノたちは、そんな「宗教的」ともいえる「公共的なるもの」を志向する他者への姿勢を持つべきだし、ポケットに入るお金の金額ではなく知恵を出していくことが快楽であっていいのだと思う。

公務員というのは本来、そういう「生き物」であっっていいのではないか?

それをやったら公務員も開き直れるし、市民もサービスの精選・厳選に納得がいくと思うなあ。

実は教育の現場なんかでは、超非正規雇用化(正採用の減少と講師採用の一般化)が進行していて、早晩それが現実になるんだけどね。
30人学級の実現ってことは、正規採用を止めて多くを非正規雇用にするってことだから。

スーパーは店長以外はパートかバイト、だけれど、学校も主任以外は基本講師っていう風になっていくのだろうね。
それでいい、とは言わないけれど、そういう形で時代の変化においついていく以外にないのだろうと思う。

地方の予算も今までのように教師の正採用ですべての学校をカバーするようなことは不可能だし。
仕事に希望が持てるなら、ペイの額なんて多少低くてもデフレ時代、しょうがないよ。

そう考えていくと、公務員なんて仕事をしている者は、民間の好景気なんかとは無縁な、書生っぽの貧乏暮らしがいいのかもしれない。金儲けがしたければ、企業に行くなり起業するなりすればいいわけで。


いやそんなものじゃあまだ甘い。
公務員なんて概念そのものをもっと小さく見積もって、ほぼ民間でやっていけばいい、という考え方もあるだろう。次回はそこをさらに妄想してみますか……。


経済について考える(2)

2010年09月06日 22時24分48秒 | 社会
経済について考える(2)
まず深く共感したことから。
小田嶋隆という人が「ア・ピース・オブ・警句」の8月27日号でこんなことを書いている。
深く納得してしまった。
引用開始-----------------------------------------------------------------------
 ところが、なぜなのか、経済の世界では、全員が表面的な議論をしているように見える。でなくても、それぞれの論客が、前提からしてまったく異なった基盤の上に立って論争を展開している。
 当然、議論は噛み合わず、各々の主張は、話せば話すほど乖離して行く。
 しかも、前回予測を外した学者が、まったく悪びれることなく次の予想を述べ立てているかと思えば、隣の席で別立ての提言を開陳している評論家は、先月とはまったく逆のことを言っていたりする。いったい彼らの眉の下の目は何を見ているんだ? 節穴なのか?

 こんなふうに経済に関する議論があやふやになるのは、そもそもそれが人間の活動を扱う研究分野だからだ。
 天体の運行やDNAの配列と違って、人間の欲望は法則に縛られない。むしろ、裏をかこうとする。でなくても、研究対象が自分のアタマで考える主体である以上、予測はほとんど不可能になる。当然だ。
引用終了-------------------------------------------------------------------------

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100826/215976/

「自分のアタマで考える主体」について考える、ということは、そのことによって考えられた「考え」もまた、対象たるべき「経済主体」によって「織り込み済み」のデータとして、当初の「自分のアタマで考える主体」にフィードバックされて影響を与えるということになるだろう。

つまり、「再帰的」な現象の内部的言説としてしか、経済政策の話は成立していない、ということだ。

私たちが経済についての学者や評論家の話の中に「真実」を探そうとするとなんだかとんでもない迷路に放り出されたような気がしてしまうのは、実は彼らは客観的分析者ではなく、大きな意味では言説プレイヤーの一人だからなのかもしれない、わけだ。

まあ、そうでなければ「借金するな」という主張と「借金してでも金を使え」という主張が同時に専門家の間でぬけぬけと語られるはずもないよね。

前提となっている「世界」についての理解も違えば、それぞれの学説や立場も違い、それぞれがそれぞれの「社会観」や「人間観」、「経済活動」の本質理解も違っていて、ほとんど別世界の話をしているようなものなのだろう。

私たち経済の素人はだから、たぶん、どの人の言うのが「正しい」のか、というナイーブな発想で彼らの「御説」を拝聴してはいけないのだ。
むろん、専門家の見識に一定の敬意を払うべきだ、ということに異論はない。
しかし、自然科学や、ことによったら文学に比べてさえ、現状打開についての「経済学的言説」は、何か一つの偏った説だけを「真実」として受け止めたりしては危うい、という感じがしだいにしてくる。

まあこれは経済学的理解、というよりは社会学的言説理解、に過ぎないのだけれどね。
どこの分野でも、起こったことの分析はできても、学者に未来を語らせるのが、考えてみれば無理ってものだろう。しかもたった一人の未来じゃない。何十億人の人類たちが営んでいる経済活動の未来である。

そのごく一部のプレーヤーである日本の、そのまたごくごく一部の経済活動や政治活動に限定された場所で、「こうすれば万能だ」なんて方策があるはずがないことは、経済学の素人でもちょっと考えれば分かることだった。

しかし、素人であれば素人であるほど、「万能じゃあない」ことに不安を抱き、何か「声高」だったり「恫喝」や「甘言」が入っていると、ついついそちらの味方をしたくなってしまうような気がする。

自分の経済的あるいは政治的立場が明確で、その利害に従って行動する(だけの)存在なら、まだ話は簡単だ。

しかし、いったん「自分の利害だけを追いかけていては、実は自分の利害を最大化できないのではないか」と考え始め、「再帰的存在」としての「現代人」を自覚的に生きようとすると、どこに単純な自己の利害を超えた基盤を見いだせるか、という課題もそこに生じてきて、さらにややこしくなってくる……ような気もする。




サッカー日本代表の決勝トーナメント進出を言祝ぐ

2010年06月28日 20時19分14秒 | 社会
サッカー日本代表の決勝トーナメント進出を言祝ぐ

サッカーW杯日本代表が、見事に決勝Tに進出を果たしました。

期待されていない(むしろ辞めろ、みたいな)中での「快挙」に、私の中の「日本人」はぐっときてしまいます。

マスコミは売れればいいので、落としたり上げたりが忙しいのもしょうがない。

でも、期待されていなかったチームが試合のたびにぐんぐん成長して初のベスト8を狙う、のですから、落ち着いて応援してあげたい気持ちです。

以下、サッカーの素人の感想。

へえーっと思ったコメントが二つあった。

一つは岡田監督の話。
「南アフリカは冬だから、走るサッカーができると思った」

っていうのに「へー、なるほど」と納得した。
かつてみていた代表のアジア予選は、最後バテてひっくり返されるシーンがたくさんあって、だから
「守備っていっても最後はやられちゃうんじゃない?」
と正直頭の片隅では思っていた。
むろん、涼しいから大丈夫、ってほど単純じゃないのは素人にも分かるけれど、走りきれる「根拠」を明快に示されて、胸のつかえが取れた感じだった。

二つ目は村上龍のコメント
「日本は、勝っていても負けていても、2点差で勝っているようなサッカーをする。まるでそれがもう日本の伝統であるかのように」

こちらはふーん、と唸らされた。
つまり、ボール回しは上手だが、点を取りに行かないといけないときの「怒濤の攻め」はなんだか感じられないね、ってことだろう。

どちらも納得。

ともあれ、明日は無心に応援します(^^;)


評判の悪い首相の沖縄訪問

2010年05月09日 12時40分59秒 | 社会
鳩山首相の米軍普天間基地移設問題の対応が厳しい批判にさらされている。

私個人としては「よくやった」という感じなのだけれど、日本国中、そういう人は多くないのかな……。
「よくやった」というのが言い過ぎだとすれば、時代の大きな転換点に立っている、と言い換えてもいい。

自民党の政治が稚拙だった、というのではない。
かつて、沖縄に有無を言わせず米軍基地を置き、それを保持することは、政治的な現実の中ではほとんど選択の余地がないことだったのだろう。

今は、具体的な「軍事的抑止力」を踏まえた国際政治の舞台に、日本も否応なくプレーヤーとして舞台に上らねばならない時期にもなり、国民もまたそれが沖縄であれ鹿児島であれ、黙って堪え忍ぶようなことはしないだろうし、官僚のシナリオを介して政治家が地元との根回しをしてすむ時代でもなくなった。

また、こういうある種の「NIMBY」問題(注)について、国民レベルで考えていく必要が出てきている、ということでもあるだろう。
国(中央)VS県(地元)という単純な対立ではすまない。
鳩山首相の「愚かさ」を、ではいったいどんな「首相」の振る舞いと「交換」すればいいというのか。
その答えは決して簡単ではないだろう。

育ちがよく、あまり深く考えずに他人の言葉を受け入れる身振りをし、結局対応しきれない「無能な誠実さ」を持つ首相をこの時期私たちが持った歴史的事実を、むしろ評価できる方向に持っていきたい、と思っているのは、これも私の他にどれほどいるのか分からないけれど……。個人的な「好み」もあるのかもしれないけれど、時代が彼を「選んだ」ことは間違いないんじゃないかな。
「つけ」を先送りするのではなく、その単純な解決方法がないという「現実」を、身をもって指し示した、という意味で。


そろそろ私たちも、「政治的」な場所に一人一人が立って思考するべき時代に入った、ということだと思う。
沖縄の人が反対するのも当然。徳之島の人が反対するのも当然。
じゃあ、どうすればいいのか。「政治や軍事の専門家がうまくやってくれよ」というだけでは、すまないと思うのだけれど、どうなんでしょう。




注:「NIMBY」とは「not in my backyard」の略。「必要性は分かるけど、うちの近くは困るよ」という住民の発想のこと。
かつては地元民のわがまま、といったニュアンスを含んで否定的に使われることも少なくなかった。しかし、現在では全体の不利益がある特定の地域や市民にのみ負担されることの「不公平さ」をどう乗り越えるか、という課題として用いられる言葉。

沖縄の米軍基地問題は、国際関係の外交問題も抱えているので、それ自体が「ゴミ処理施設」「原発」などと同列には論じられない側面もあるが、一方では「NIMBY」的問題として分析・検討・対応が必要な側面も持つと考えられる。


年金記録がつながった

2010年03月18日 23時00分34秒 | 社会
 年金記録の不整合など他人事だと思っていたが、去年届いたねんきん特別便をみたらなんと記録に不備があって驚いた。
 しかし、問い合わせて年金手帳のコピーを送ったら、意外にも?(失礼!)ちゃんと記録をつなげてくれた。
 政治問題化していなかったら、こんな風にスムーズにいっただろうか、とつい思っちゃうけど、何はともあれ一安心。

 私のころ大学生のうちは、20歳からの国民年金加入が任意だったらしい。
 父親が将来のため、といって、就職までの3年間(浪人したので23歳まで学生だった)国民年金をかけていてくれたのだ。

 今はもう年金の受け取りが65歳からになってしまったし、さほど金額が変わるのかどうかも分からないが、32年前の父親の心遣いは、今更ながらありがたい。

 記録が照合されていなかったのは、名前のふりがなが違っていたためだった。
 途中で名前の呼び方を変えた私自身の若気の至りのせい、なので、お役所の人の責任ではない。

 でもね、本当は年金なんてもらわなくても、ずっと元気で働ければそれがいい、とも思う。
 実際は体がきつくなったり、新しい仕事に対応しにくくなったり、気力が足りなくなったり、もするのかもしれない。
 あと10年後、20年後の自分の「元気」を想像することは、20年前の頃に「今」を想像することより、ずっと難しいような気がする。
 それでも、使える場所はあるはずじゃないのか?
 日本から元気がどんどんなくなっている、みたいな話をよく聞くし、実際「正採用」になる若者の比率はぐっと低くなったようだ。手取りの給料は、100万単位で減っている。リストラにあって生首を切られないだけずっとまし、なのかもしれない。人手は減って、仕事は増え続けている印象もある。

 それはそうなんだけれど、主観的にはもっと仕事がしたい、と思う。贅沢かもしれないけれど、持っているノウハウを存分に発揮できたら、60代は、「上手に限定的」であればまだ十分な戦力たり得ると思うし、お金を稼げれば守りに入らなくて済むから、経済的にも悪くない「存在」でありつづけられる可能性は十分。
そんな気がする。セミリタイアの道筋を上手に自分でつけられたら、とも。
 もう、今すぐ引退してどこかで庵を結んで隠居だぁ~い、という思いが強まると同時に、生涯現役(といっても75歳ぐらいまでには一段落つけたいけどさっ)でいられたらいいのに、という気持ちも頭をもたげてくる。
 どちらかだけに傾くのではなく、軸足を私生活に移しながら、年金分ぐらいを働いていけたらいいのになあ。

 難しいねえ。


 


 それが無駄にならなくて良かった。



個人的感想だけれど

2010年02月22日 23時51分20秒 | 社会
 すぐれて個人的感想だけれど、トヨタ自動車のプリウスをはじめとするリコールの問題は、トヨタの高品質サービスのやり方自体にも関わっているのではないか、と感じる。
 言うまでもないことだが、工業製品は発売された段階ではまだ熟成していない。
 私の知っている大手の作り手は、納期や発売日程に追われている工業製品に関しては、絶対
「ファーストロットに手を出すな」
 と言う人が以前から多かった。

 そんなことは、ある意味で当たり前のことだと思う。
 イメージとして、トヨタはおもしろみのない80点主義の製品が多かったし、時折突出した異色のものも出したが、さりげなく消えていくことも多かった。その出し入れの巧みさには、個人的にはさすがだな、と思っていた。

 私は新車でトヨタの車を2台購入し、いずれも15万キロ乗って手放した。
 一台はエスティマエミーナのディーゼルターボ。
 もう一台はファンカーゴ。
 ファンカーゴは、衝突安全性が低かったが(ベース車となったヴィッツ以下)、いつのまにか車種自体が消えていた。
 エスティマエミー名のディーゼルターボは実によく油を食べたり漏れたりしたが、そのたびに
「ターボユニットごと交換しましたから」
 と言われた。もちろんずっと無料だった。

 私は、トヨタは上手な商売をするなあ、とそのときも思っていたものだった。
 クレームが大きくならないように、素早く黙って対応するのだ。
 他に乗ったのはホンダとマツダだったが、マツダのディーラーは30年前、自社の車さえ整備できない状態が田舎では存在したけれど、80点主義のトヨタは、田舎の工場でも十分だった。
 ホンダは、新型になって、デザインやコンセプトは魅力的になったが、仕様が落ちることもあった。これも20年も前のことだったが。

 トヨタ車は、そんな時も信頼感があった。
 ただし、その信頼感は、リコールを素早く行い、情報をいちはやく公開して消費者すべての安全と満足を共有する姿勢とはおよそ対極的な信頼感、だったと思う。

 「世界一」のメーカーになったトヨタの社長がアメリカに呼ばれて車の不具合の対応の問題を問いただされると聞く。

 たとえばプリウスのブレーキの電子制御切り替えの違和感なども、順次黙って直している最中だったとか。
 かつてのトヨタ車のオーナーとしては、ああ、やっぱりね、そういう対応が続いているんだ、と思う。

 どこのメーカーだってそうだ、とは言えるのかもしれない。トヨタだけが特別すごい悪い対応をしたわけではないだろう。
 むしろトヨタは上手にやりすぎる。

 そして現代の文脈においては、その「上手さ」を「悪質さ」と捉えることは、昔よりずっと「容易」になってきているのではないか。

アメリカにおいてだけ糾弾される文化ギャップ、という問題ではなく、「今」はそういう時代になっているのだ、ということでもあるだろう。

単純な話、もっと熟成してから出せば良かったのだ。

あるいは、80点時代なら、それでも技術的に十分カバーできたり、ばれない程度の性能で終わったのではないか。

あるいはさらに、かつては、今問題になっているようなことは、むしろ「高品質のサービス」であったのかもしれない。

もう二度とたぶんトヨタの新車には乗らないと思うけれど(というかこれからの経済状態を予想すれば、新車なんてほとんど購入機会がなくなると思うけれど)、トヨタにはぜひがんばってもらいたい。日本の自動車産業のトップなわけだし、世界有数のメーカーであることは間違いないし、日本の雇用もアメリカの雇用も守っている企業なわけだし。

冷泉彰彦という人が、村上龍のメールマガジンの中で、電子制御によるブレーキの切り替えに対する違和感に、文化ギャップ(ブレーキを電子制御にすることに対するアメリカの人たちの不信)を見ている内容の記述があった。
もしかするとそういうこともあるのだろうか。
アメリカ固有の問題は、私には分からない。

ただ、トヨタ車の一ユーザーだった人間にとっても、いろいろ考えさせられる今回のトヨタ社長のアメリカ議会の公聴会出席事件、だ。

聞けば、アメリカの公聴会って、すごく難しいとか。公共的なる言説を用いての「戦闘」であり、文化的なギャップを踏まえてのタフな「交渉」であり、しかもそれを「アウェー」でこなさなければならない、となれば、ある意味オリンピックよりもどきどきする。
どうか、いいパフォーマンスを見せてほしい、と思う。


運転代行屋さんと「出家したい」が口癖の友人のこと

2009年12月08日 22時33分02秒 | 社会
職場の部署での忘年会があったのだが、すっかり忘れて残業していたら、上司から携帯で連絡が入った。

たぶんあいつのことだから忘れているのでは、と心配されたらしい。
当たっていました(笑)。

慌ててお客さんとのやりとりを切り上げて車で直行。田舎は運転代行というものが常識だから、つい飲んでしまう。

酒飲みは平日ゆえ一次会で切り上げ、代行を拾ってアパートへ。

「忘年会ですか?」「ええ」「いいですね、忘年会をやれるっていうのは」

なんだか日曜日の床屋の親父さんの会話が再現されそうな気配であった。

景気はどうですか、いやー悪いねぇ、というたぐいの話題は、今どきの定番なのだろう。新規大卒の就職率の低さから事業仕分け、そして日本の人材育成の問題、年金あたりまでしゃべったところで家に着いた(^^;)。

定番の、当たり障りのない話題だが、「忘年会」ができないってレベルの話は今までなかったぞ、やっぱり。床屋さんの話のように収入1/3という話も初めての経験だ。

不況、不況とばかりいっていては、これからどこかに「好況」がやってくるかのような幻想を招き寄せてしまうという躊躇いは抱く。しかしまあ、景気は良くはあるまい。首にはならないものの、収入はほんとうに少なくなっている。

副業もままならないとすれば、ぼやくだけでなく、どんな満足感をどこで抱けばいいのか。真剣に生活改善というか、生き方の見直しというか、処世術レベルではない世界観の書き換えというか、人生の攻め直しというか、そのあたりを考えなければならないような気がする。

最近、はちゃめちゃ冒険家高野秀行という人の本を立て続けに読んでいるのは、むろん逃避といえば逃避だが、「今」いる場所を相対化しなければ生きづらくてしょうがない、という自然な心の要求かもしれない、とも思った。

友人の一人の口癖に「あ~出家して~」というのがあって、聞くたびに苦笑するのだが、最近私の心の中でリアリティが増してきている。出家など、不自由だった身分制度の中での限定的装置だとしか考えていなかったが、源氏物語の紫式部が、源氏に出家を止められて具合が悪くなる件などを最近読むと、リアルすぎてどきどきする……のだが、それは古典フェチだろうか。

しみじみと、大変だ。

2009年12月07日 01時19分19秒 | 社会
 食っていくのが難しい時代だとつくづく思う。

 ただ右肩上がりの幻想を捨てられない、というだけではあるまい。
 地縁的共同体意識の弱まりもよく言われることだが、地縁的つながりだって、いくら高くても地元のお店にいくという話ではなかった。
 「激安」ならば安いお店に行くのは「当たり前」だし、サービスの悪い売り手は退場してもらおう、というのも「当たり前」。

 しかしその「当たり前」だけ声高に言われても、状況に翻弄される現場の者にとってはその指摘は恫喝に似る。

 「仕事を継続的にその地域で行って、しかも食っていく」
 その当たり前の場所を探そうとしても、それが難しいとしたら。

 これでは、小さい生活を守ろうとしてますます縮んでしまい、本来なら人と人とがつながり合うべき中間領域までもが希薄になってしまうのでは、と危惧を抱く。

 もちろん処世術としては、お金をあまり使わないで人生を楽しむ方法が見つかり、その新しいバランスで人とほどよく関わりあう生活が成り立てば、とりあえずはそれでいいともいえる。

 理髪店の親父さんの選択は、既存の設備で人を減らし、自分一人で低価格路線を選ぶことだった。子供さんを別のところで働かせれば、給料払わなくていいし、むしろ家庭としては差し引きプラスになる。
 かつて、自営の商売ならパパママでやっていればなんとかなる、のが一般的だったけれど、そうばかりいっていられないところまで来たのか。
勤め人もまた、「安定と引き替えに、経済的プレーヤーとしてアマチュアのままでいいや」とばかり言ってはいられない。

 ではいったいどんな絵図面を書けばいいのか。問われているのは、お金の流通の中で生きる生活をしている私たち(老若男女を問わず)すべての「経済」的な力(お金の持ち高ではなく)なのかもしれない。

見識とか生き方とか政治に対する判断まで含めて。

雨の日の理髪店にて

2009年12月06日 21時54分37秒 | 社会
 体調不良のため部屋に引きこもっていた週末、歩いて病院に行こうとしたら、道路沿いの理髪店に安売りの看板が出ていた。今日び、医者&クスリも通い続けるとかなりの負担だ。安さに惹かれて、帰りがけふらりと立ち寄った。

店主一人に椅子二つ、の典型的な街の床屋さん。値段はカットのみ週末1250円。

2年前からその値段にしたのだという。以前は手広くやっていたが、二年前息子さんも使用人もよそにいってもらって、一人でやる低料金の店、にリニューアルしたのだそうだ。

親父さんによると、近所に出来たディスカウント理髪店も、「たぶん赤字じゃないの?」

結局根本的に、食えない。今年の市内の理美容学校の生徒数はなんとゼロ、だそうだ。個人でやっている高齢者の経営する理髪店も、今後数年で廃業が相次ぐだろう、とも。

今年の夏前に旅行したときの、弘前の喫茶店のマスターの呟きがよみがえる。

「後10年は弘前の農業も保つだろうけど、20年後は農業を支えている老人がいなくなるからね」

理髪店は、実質1/3ぐらいまで単価が下がっている。

「おれは昔のお客さんもいるからこうやって続けられるけど、これから新規投資をしては、とうてい回収できないだろう」

とも親父さんは言っていた。

「サラリーマンは早期退職すればまだ何年分かもらえるからいいよね」そういって送り出してくれた。

降っていた小雨はもう止んでいたけれど、気持ちは晴れなかった。