龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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牛腸茂雄展を観てきた。

2024年12月16日 15時12分54秒 | 評論

いわき市美術館で開催されていた(現在は終了)

写真家牛腸茂雄展

を観てきた。

写真展なんて、酒田市の土門拳記念館を一度、恵比寿の写真美術館の企画展を一度見たぐらいで、ほぼ経験がない。

絵画ならばどんなにわけの分からないことが描いてあろうが、それはとにかく作者の表現なのだ、という「約束」が予め共有されているから、難解そうたったり、抽象的だったりしても驚きはしない。

 

ちょっと警戒するのはむしろ「あたかも写真であるかのようにいやそれを超えてしまったかのように」描かれているスーパーリアリズムの絵画を観た場合だ(ホキ美術館など)。この人はいったい何をしたいのだ?と危険信号が点滅する。

 

写真はむしろその逆だ。ついつい見たまま、を観てしまった気になる。だって被写体はリアル世界の出来事に決まっているわけだから。

だがむろん、一度でもカメラを購入して写真を撮ろうなどと生意気なことを考えたことがある人なら、その「見たまま」がどんなに困難かをすぐに知らされることになる。

写真を撮っても、見たままになんか撮れないのだ。

 

そしてそこには幾つかの要素がある、と次第に分かってくる。

一つは技術が瞳の見たままに追いつかないという問題。

もう一つは同じことの別の言い方なのかもしれないけれど、写真は別に見た通り撮っているわけではないという側面だ。

どんなフレームでどんな角度でどんな倍率でどんな対象との距離で、どんなエフェクトをかけて撮るのか、は「みたまま」などといった素朴な話を受け付けない。

 

3つ目は、こちらの脳みその問題にもなるのだが、何かを私たちが見つめたとき、その実感、リアリティ、つまりはクオリアとでも言うべきものは、もともと印画紙に定着したり、液晶画面のドットにあらわれているものとは根本的にことなる、、という側面だ。

 

たから写真家は、素人であっても、シャッタースピードを変え、露出を変え!感度を変え、倍率を変え、そのいわゆる見たものの質感クオリアに迫りたいと願うだろう。

 

いわゆる写真をゲージツ的なキャンバスにしようとする「前衛」なら話は簡単だ。

絵画のように扱えばとりあえずはそれで済む。

字ではない書道、見たままではない写真、音階を保たない音楽……。

 

そうではなく、見ているのに観ているママではない写真。そういう領域があるとしたらそれほどーユーことなのか?

 

牛腸茂雄の写真をみていると、そんなことを考えさせられるようになった。

 

写真展覧会体験の乏しい素人の言だから話半分以下に聴いてもらってよいのだが、牛腸茂雄の、写真は何か文学的な音色がするのだ。

 

どういうことか。

 

(この項続く)