龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

ブログの表紙にしている馬の写真は阿蘇です。

2015年09月15日 21時33分39秒 | 観光
阿蘇山が大規模な噴火をしているという。

ブログの表紙に阿蘇旅行の時の馬の写真を使っていることからも分かるように、私は

「下手の阿蘇好き」

めいた阿蘇ファンである。

夏目漱石の小説『二百十日』

や、

三好達治の詩『大阿蘇』

を読んでから、ずっと行きたいと思っていた。数年前、ロードスター購入を機に、思い切って福島県から熊本県まで往復4000キロほどの旅をした、そのときとった写真だ。

こういうことを書くと、本当に不謹慎だと思われそうだが、火山は噴火するものである。

だから、噴火そのものはそんなに驚くべき事象ではない。少なくても日本に居住している以上、それが私の住む会津磐梯山であれ吾妻山であれ、過去に大規模な噴火もしているし、被害も出ているしまた、現在警戒レベル2の指定がなされていたりもする。
桜島の噴火が生活の中に入ってしまっている鹿児島の方々の「覚悟」というかその日常とは比べるべくもないが、しかし、いつか大きな噴火があるということは日本に住む限り、それなりに「考慮」しておかねばならない。

ただ、箱根の温泉の例を見ても分かるように、その幾分かの危険をはらんだ火山こそが観光資源それ自体だったり、温泉を生み出す源であったりもするから悩ましい。私が大好きな阿蘇の美しい風景も、清らかな湧き水も、間違いなく活火山が作った環境なのだろう。

私は勝手に、退職したら弘前か阿蘇に住みたいという妄想を抱いてきた。
今でもそれは変わっていない。

もう一カ所住んでもいいな、と思っていたのは福島県双葉郡の夜ノ森(浜通り有数の桜の名所がある)だが、これはちょっと無理かも知れないが。

現在阿蘇にお住まいの方はとても大変だろうと察する。
何かできること、必要なことがあったら、支援もしたい。

火山はそれにしても、噴火するものであり、それを押しとどめる力を現在のところ、そして私が生きている間は持たないままだろう。

であるとするならば、どうやって付き合っていくか、の準備と覚悟が大切になる。
覚悟だけではいけないだろうし、準備をしていれば対応しきれる、というものでもない。

東日本大震災と原発事故以降、災害について(考えても仕方の無いかもしれないようなことまでふくめていろいろと)考えるようになった。

阿蘇の噴火がどうか被害を大きくせずに収まってくれることを心から祈る。

同時に、それでもその火山列島の中で生きていくのが日本だ、ということも改めてつくづくと思う。津波も噴火も長い期間を取って観れば避けられない。

私たちの自然観、人生観にそういうことが影響を与えているのかいないのか。



読むべし『小さな革命・東ドイツ市民の体験』ふくもとまさお

2015年09月15日 16時18分43秒 | メディア日記
『小さな革命・東ドイツ市民の体験』ふくもとまさお 言叢社刊

ひさしぶりにページを繰るたびに感情の波が押し寄せてくるノンフィクションを読んだ気がする。
必読の一冊。

「ドイツ統一」 

と五文字で済ませてしまうことができない、かつての東ドイツの人々の生活とその激変ぶりが丁寧に語られていく。

大上段からドイツ統一のドラマを語ったものでもないし、その問題点を政治や経済の視点で分析したものでもない。

基本的にはベルリンの壁崩壊からドイツ統一を経て今日に至るまでの 「東ドイツ市民」のインタビューで構成されている。

この本を読むまで、「東ドイツ」に対しては秘密警察が生活を統制していた 「東側」というイメージしか持っていなかった。

だから、東西ドイツが統一されてよかったね、といった脳天気なイメージというほどではないにしても、ベルリンの壁崩壊のエピソードとか、せいぜい文中にあった映画『グッバイレーニン』のイメージが辛うじてあるだけだ。

実際にその大きな

「世界史的事件」

を、市民はどう受け止め、どう生きたのか、その息遣いが伝わってくる労作である。

日本人としてこの本が読めることをとてもうれしく思う。

二つの全く異なる政治体制を生きた人々(市民)の声を聴くことは、今の日本に生きる自分にとって、大きな意味がある、と感じた。

ちょっとピントが甘くなる表現なのを自覚しつつそれでも書いておくとすれば、 日本もようやく今になって、この失われた20 年(もしくは戦後70年)の時を隔てて、東西ドイツの統一が抱えていた課題と向き合おうとしているのではないか?

そんな思いすら抱かされる。

ぜひ手にとってご覧になることをお薦めしたい。