龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『13・67』陳浩基を読むべし。

2018年05月12日 20時22分28秒 | 観光
購入したのはしばらく前で、友人にちょっとこの本の存在を知らせたところ彼は早速読んでしまい、同じ天野健太郎という訳者の台湾小説を紹介してくれ、結果『13・67』が後回しになり、台湾小説の『歩道橋の魔術師』呉明益を先に読むことになってしまった。

この『歩道橋の魔術師』がまたすこぶるおもしろい小説なのだが、今日は『13・67』の話。

ようやく昨夜『13・67』を読み始めたら文句なくすごい。
久しぶりにパワーのある作品に出会ったという喜びが身体の中を駆けめぐる感じがした。



かつで凄腕の警察官だったクワンが年老いて病床にあり、寝たきりではなすこともでこの小説は、断然今の日本で読まれるべき作品だと思う。きない彼が、ローという「弟子」の抱える難事件を解決するという安楽椅子探偵というかベッド探偵の話からスタートし、短編連作の形を取って次第にクワンの過去へと遡りながら物語は展開していく。そしてクワンが警察官になる前まで描かれて終わるのだが、その遡行する連作の中の時間は、そのまま香港がイギリスから中国に変換される歴史を振り返ることにもなっている。
つまり、クワンの50年にわたる人生を遡りつつ、結果として1960年代の反英闘争、香港の中国返還、2010年代になってからの雨傘運動と、香港という街の50年を描くことにもなっている。
一編一編の人物像にも確かな手応えがあり、むろんミステリーとしての味わいも十二分にある。

聞けば、『世界を売った男』という作品で第二回島田荘司推理小説賞を受賞した陳浩基の受賞第一作だという。

もし未読の方がいらっしゃったら、それは幸せなことです。今すぐ本屋へ行きましょう。
電子書籍をクリックすると、一晩眠れなくなるかもしれません。

去年刊行された作品ですが、私が今年読んだ上半期の小説ではベスト3ぐらいには入りそうな1冊。
最近あんまり小説読んでないんですけどね(笑)。

というわけで、ぜひどうぞ。

退職してからの一ヶ月(ご報告)

2018年05月12日 09時39分21秒 | 今日の日記
退職してから一月余り経った。
いろいろと変化が大きく戸惑っている。

語りたいことがないわけではない。
37年間続けてきた公立高校の国語教諭という仕事を終えたわけだから、これだけ饒舌な自分であってみれば、感慨の一つや二つ、いや十や二十は即座にまくし立てたいところだ。

だが、不用意にことばにしてしまうと、「退職者」だったり「退職後の再雇用者」だったりの語りになってしまう。

それが悪いというのではない。ただ、なんといったらいいのか、今までは教員でありながら教員以外の自分がことばを語るという「隙間産業」的なことばの生産方法だったのに、いつのまにか油断すると、その教員という立場を失い、「退職者」になったばかりにそのカテゴリーを背負った発話を意図せずに意図することになってしまいかねない、とでもいいたくなるような状態になりつつあるような気がするのだ。

今までは無意識のうちに身につけた「役割」を前提として、その「役割」との距離感を保っていればそこが語りの基盤にできていたのに、その前提としての「役割」を失ったために、ことばがなかなか形を成してくれない、そんな感じ、とでもいえばいいだろうか。

つまり、ことばは居心地の悪さからはじめるのが通例だったのに、その居心地の悪さというちょっとした「イスに座っているお尻のむずむず」が失われ、イスもなければ床もなくなってしまったような途方に暮れる感じにおそわれてきてしまったということかもしれない。

もしかすると、ことばを見失っているのかもしれない、と思う。
自分が思ったよりもずっと状況依存的にことばを使っていたんだな、とも思う。


今は再雇用の職場が同じで、しかも仕事内容、分掌、部屋、部署のスタッフすべてが同じで、給与だけ約4割減。
お金を以前通りに出してほしい、とは思わない。しかし、4割減で全く同じ仕事、というのは、自分の中で仕事の割合を低くしていかなければバランスがとれないことも確かなのだ。

仕事が同じってのがなあ……(じゃあ辞めればってことでもあるわけですよね、退職金ももらったことなんだし。でもそうもいかないんだ、これが)。
仕事を辞めて新しいことでもやればいい、ってのもわかる。でもさ、無年金だからねえ。社会的に微妙な場所にたたされるわけです。なんとなく。定年延長でもない、雇用うちきりもでない。なんとなく中途半端なもやもやがある。


きっと転職した人には当たり前のことなのかもしれない。
あるいは、退職すればおおかれすくなかれみんなこんなことに直面するのだろう。
人生が続きつつ、別のステージになっていくという意味では、ね。


ただ、今まで言葉ができていたはずの場所からことばがででこなくなる、そんなイメージなのだ。
そうはいってもことばを身体の外に出していかないと、体調も悪くなりそう。

ともあれ、そろそろことばを形にしてリハビリをはじめなければ。