龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『自閉症連続体の時代』立岩真也を読み始めた。

2019年02月12日 10時52分35秒 | 大震災の中で
『自閉症連続体の時代』立岩真也
みすず書房刊3700円+税
(……高いね(>_<)……)

この本は、とても 「懐かしさ」を感じる書物だ。これを懐かしいと感じるのはなぜなんだろう、と思うが、簡単には説明できそうにない。
読んでイライラする人もいんるだろうな、いやむしろ普通に考えれば読み難い文章だと言っていいかもしれない。しかし、この 「道行き」というか、答えと問いとを同時に手のひらの上に持ちつつ、なおそれらをいくつかの切り分け方に応じて 「一定の根拠」を認めた上で、それを含めた問い直しを端からそくそくやっていくことばの身振り(と私には感じられるもの)が、とても懐かしかったのだ。
まず一つ、ここ数年いろいろと考えることがそれなりにあって、そういうことたちとこの本が共鳴している。だから 「懐かしい」のだ。
もう一つには、
「答えを出そうとする欲望が問いを立てさせる」
ことの複数性をきちんと踏まえてそれらがぐちゃぐちゃに立ち現れる 「混乱した頭の中」を、簡単には整理することなく叙述してくれているという 「高度さ」というか 「まどろっこしさ」というか 「不自然さ」が、にもかかわらず不思議にフィット感をもって近づいてくる 、という点が、懐かしく感じる理由かもしれない。だかそれはそうだとしても…………いやその続きは本を読んでからにしよう。


内容については、 「近代医療批判」についての分析で(1)~(4
)まで指摘している、この挙げ方を見れば興味を引かれるかどうかが分かる。

引用開始
(1)病・障害を社会が引き起こしているという批判
(2 )「自然」が賞揚されることがあった
(3)どちらをよしとするにせよ自分で決めればいいという自己決定の主張があった

これらはみな重要だが十分ではなく、時には問題の所在に気づかせない装置として作動してしまうこともある。

(4)(前出のみっつ:引用者)より以前からあったとも言えるしその三つの後に現れたとも捉えることのできるかあ社会」を問題にするもう一つの捉え方が有効であると私は考えている
引用終了

今、今日私が立っている場所、どの病院でどんな治療を(してもらう)(していける)(選択する)のか、という場所に立たされている。それは医療のご加護を祈ることでもなく、全く主体的に医療に関わるのでもなく、環境を変えればいいというものでもなく、自分で選択すれば問題解決、というわけでもない。

著者がいう 「明るさ」でもいいし、スピノザの 「コナトゥス=(より良く)生きる努力」といってもいいが、今ここにある環境世界の中で 「生きる」ことを考えるために必要な事柄をめぐってかかれようとしている文章だということは分かる。
今日はこれからこれを読む。
しかし、週末に予定している読書会の課題図書の一冊をまだ予約した図書館から受け取っていない。手ごわそうな本なのに……。

「連続体」=スペクトラムを単純に切り分けることばはうさんくさい。
福島に住んでいると、そういうことについてはよく分かるようになる。

福島に生きることについても書かねばならないことがあるのだが、、それはまた項を改めて(未来会議の 「50年後への手紙 」がメッチャメチャおもしろかったのですが)書く。