2020/03/31
Netflix映画『ROMA』にぶっ飛ぶ。
一昨年から去年にかけてめちゃくちゃ話題になった映画だという話を聞いていて、この映画のためにNetflixを契約したのだが、なかなか観る気持ちにならずにいた。
やっぱり気持ちに余裕がないときは、とにかく娯楽映画が観たくなる。「無思考」でいたいから映画に没入する、ということは確かにあって、それが映画の大きな効用の一つだとすら思っている。小説はもう、そういう時期は過ぎてしまった。小説は定番すぎると飽きてしまう。しかし映画は十分普通のエンタテインメントで十分。
しかし『ROMA』は全くネットの批評サイトもアクセスしていなかったものの、芸術映画の匂いがして、そのためにNetflixを契約したのに、一月ぐらい迂回していた。
だが、もはやこの新型コロナが強いてくる閉塞感の中で、アクション映画ばかり観ていてもしょうがない、という気持ちになり、ようやく『ROMA』にたどり着いた。
やはり。
これはちょっとしんどい映画だった。
映像が綺麗すぎる。こういうものを二時間も見続けられる映画的体力が私にはない。最初の15分ほどの「幸せさ」が失われていくのだとしたら、耐えられないと思った。
しかし、目を離すこともできない。モノクロの映画なのだが、色がある。グレーというかグラデーションというか、あまりに美しい。
最初の中庭などちょっとセットっぽくてキレイすぎ、と思ったぐらいだが、メキシコの中産階級の(僕らにとっては)街中の豪邸と、そこで働く家政婦二人、そして子供たちの姿は、美しく、幸福だ。
だからこういう映画はしんどい。これがそのまま続くなら、映画にはしないわけだから。
子供たちの自然さ、家政婦二人と奥様のやりとりの日常性。
ここに今年話題になった『パラサイト』、直近に読んだ韓国小説『82年生まれ、キム・ジオン』、それに今年になってからみたケン・ローチ監督の『家族を想うとき』を重ねてみたくなる。
そういうものを今年観てきた、自分の気持ちの中での乱反射をすべて吸い込む力がある映画だ。
そして車とその駐車スペースの描き方。冒頭、洗い流されている屋内駐車場の床の水は、寄せては返す波のようでもあることに、映画が終わって改めて気づかされる。
退屈なのに、やられてしまう。
映画好きが好きな映画になるだろうことは想像に難くない。
しかし、それだけでは済まないものを見せられてしまっている感じがある。
男たちがカスなのも観ていて辛い(笑)。
最後の海辺の長回しのシーンは、自分にも経験があったので冷静では観られなかった。
退屈というか淡々と美しすぎる映像の描写を積み重ねてきて、ここにたどりつくのは、しんどい。
まるで芸術だ(笑)。
こういう映画を好きになる知的体力というか、マゾ的資質を私は個人的に欠いているのだが、それでもなお、なんか魅せられてしまってしんどい。
物語に回収されない描写、って単純に映画でまでそんなに熱心に観たいわけではないのだ。
しかし、魅せられてしまう。
Netflixのエンタメ全開のラインナップの中に、こういう作品が入っているというのは油断ならない。
素敵だ。
スチール写真としてとっておきたいようなシーンばかりである。
困る。
見はじめると、普通の映画が物足りなくなりかねない。
映画を観ることの意味(面白さ)が自分の中で化学変化してしまいかねない種類の作品かも。
そういう意味では、観ないで済ませられるなら、観ないでおいた方がいい映画かもしれませんね。
Netflix映画『ROMA』にぶっ飛ぶ。
一昨年から去年にかけてめちゃくちゃ話題になった映画だという話を聞いていて、この映画のためにNetflixを契約したのだが、なかなか観る気持ちにならずにいた。
やっぱり気持ちに余裕がないときは、とにかく娯楽映画が観たくなる。「無思考」でいたいから映画に没入する、ということは確かにあって、それが映画の大きな効用の一つだとすら思っている。小説はもう、そういう時期は過ぎてしまった。小説は定番すぎると飽きてしまう。しかし映画は十分普通のエンタテインメントで十分。
しかし『ROMA』は全くネットの批評サイトもアクセスしていなかったものの、芸術映画の匂いがして、そのためにNetflixを契約したのに、一月ぐらい迂回していた。
だが、もはやこの新型コロナが強いてくる閉塞感の中で、アクション映画ばかり観ていてもしょうがない、という気持ちになり、ようやく『ROMA』にたどり着いた。
やはり。
これはちょっとしんどい映画だった。
映像が綺麗すぎる。こういうものを二時間も見続けられる映画的体力が私にはない。最初の15分ほどの「幸せさ」が失われていくのだとしたら、耐えられないと思った。
しかし、目を離すこともできない。モノクロの映画なのだが、色がある。グレーというかグラデーションというか、あまりに美しい。
最初の中庭などちょっとセットっぽくてキレイすぎ、と思ったぐらいだが、メキシコの中産階級の(僕らにとっては)街中の豪邸と、そこで働く家政婦二人、そして子供たちの姿は、美しく、幸福だ。
だからこういう映画はしんどい。これがそのまま続くなら、映画にはしないわけだから。
子供たちの自然さ、家政婦二人と奥様のやりとりの日常性。
ここに今年話題になった『パラサイト』、直近に読んだ韓国小説『82年生まれ、キム・ジオン』、それに今年になってからみたケン・ローチ監督の『家族を想うとき』を重ねてみたくなる。
そういうものを今年観てきた、自分の気持ちの中での乱反射をすべて吸い込む力がある映画だ。
そして車とその駐車スペースの描き方。冒頭、洗い流されている屋内駐車場の床の水は、寄せては返す波のようでもあることに、映画が終わって改めて気づかされる。
退屈なのに、やられてしまう。
映画好きが好きな映画になるだろうことは想像に難くない。
しかし、それだけでは済まないものを見せられてしまっている感じがある。
男たちがカスなのも観ていて辛い(笑)。
最後の海辺の長回しのシーンは、自分にも経験があったので冷静では観られなかった。
退屈というか淡々と美しすぎる映像の描写を積み重ねてきて、ここにたどりつくのは、しんどい。
まるで芸術だ(笑)。
こういう映画を好きになる知的体力というか、マゾ的資質を私は個人的に欠いているのだが、それでもなお、なんか魅せられてしまってしんどい。
物語に回収されない描写、って単純に映画でまでそんなに熱心に観たいわけではないのだ。
しかし、魅せられてしまう。
Netflixのエンタメ全開のラインナップの中に、こういう作品が入っているというのは油断ならない。
素敵だ。
スチール写真としてとっておきたいようなシーンばかりである。
困る。
見はじめると、普通の映画が物足りなくなりかねない。
映画を観ることの意味(面白さ)が自分の中で化学変化してしまいかねない種類の作品かも。
そういう意味では、観ないで済ませられるなら、観ないでおいた方がいい映画かもしれませんね。