龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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絶対他力への道、無限者から還る道。

2012年01月27日 22時15分13秒 | 大震災の中で
もう一つ気がついたことがある。
この「往還」を中心に世界と感応する姿勢は、「絶対他力」と親和性が高い。
スピノザは神=自然の「あらわれ」として世界の存在を考えるから、人間の「自由」とかを重視しない。ってか、そもそも存在は全て神様の「表現形」なんだから、人間の意志とか判断に左右されるはずもない。
親鸞もまた、不可能性のリミットとしての仏の立ち現れを語っているかのようだ。

子羊は果たして「迷える」のか、また子羊は仮に自ら「迷う」ことのできる能力があるとしてそれは自力による選択で救抜できるのか?

根本原理を強く志向しなければまた別だ。
しかし、神なり仏なり、信の向かうべきリミットとしての無限者を志向するならば、それは不思議なことに「イマココ」性を帯びてくる。

いや、不思議なことにとは曖昧な言い方だ。

今村的にいえば、平安時代には自明とされた「信」を、親鸞は真剣に哲学的に問わねばならない場所に立っていた、と指摘する。
國分的にいえば、スピノザに先行するデカルトが想定した説得すべき懐疑する者としての他者は実は、半ばは自分自身であったのに対して、スピノザが語る説得は非常に弱い、と指摘する。
そせてこの弱い説得こそが、本当に絶対的な他者の傍らに立つ行為なのではないか、と問いかけるのだ。

今村の提示する親鸞も、國分のなぞるスピノザも、決して説得を放棄してはいない。
けれどそれは、ある種の無前提な自明性、同一性、本来性を強く拒んでおり、だから、不可能な説得に近い感触、あるいは難解さ、
といってもいい不可解な感じを抱かせるのではないか。

誤解のないようにいえば、法然やデカルトの身振りを否定したとかいうのじゃないのだろうね。
わかんないけど(笑)
そうじゃなくて、人間という有限者を神や仏という無限者と引き合わせるのはもともと無理がある。
信じることを自明とするか、もしくは不可能とするか、以外に方法はない、のかもしれない。
でも、そこのところに限界をおかなかったらどうなるのか?

そういう意味で、哲学として汲めども尽きぬテキスト、になるわけだ。

だから、改めていうと、その不可能性というか、よわい説得のうちに潜む光に感応する、ということが、「読める」ということのとりあえずの内実なのだろう。
ここ、大事な話のような気がするので継続審議、です。


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