龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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入院体験記(2)

2010年08月14日 11時00分24秒 | 身体

その後。
簡単な外科的手術で、土日を挟んでいるので、入院していても実質することがないので、すべての説明が終わると外泊許可が出た(笑)。

入院の前は旅行が長かったので、自宅PCを立ち上げるのは久しぶり。
溜まりに溜まった1000通弱のメール(迷惑メールというのではないが、99%は不要メール)を流していたら、その中でこれが目にとまった。

日経ビジネスオンラインのコラム、小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句』の8/6版
「グーグル、そして英語化される世界について考える」
の中の

引用開始--------------------------
 日本語を使っている限り、英語国民には負けない。これは非常に大切なポイントだ。死守せねばならない。
 もちろん、日本語を使っている限り、英語国民には勝てないわけだが、大切なのは無勝負無判定に持ち込むことだ。英語を使ったところでどうせ勝てないわけだし、のみならず、英語の世界では必ず負けることになっているからだ。完全に。
引用終了--------------------------

というところが印象に残った。

インフォームドコンセントの文書の言葉たちが目指しているのも、この「勝負無判定」に持ち込むこと、だったのではないか、と感じたのだ。

むろん、説明・同意書は日本語で書かれている。
そして昔手術の前に書かされた問答無用の白紙委任状とは全く違う。

手術の目的と得失を相互に理解し、その上で説明を受け、同意した、という筋道だ。

しかしそれは、この異質な文化同士がせめぎ合う中で、「勝負無判定」に持ち込むというスタンスもまた見て取れる。
ポイントは結局、そういうことなのかもしれない、と思う。

完全に対等な立場、等質な理解など、どんな交渉ごとやプロジェクト、商売においても成立はしない。
しかし、日々私たちはそんな中で可能な限り円滑に、自分たちの立場も保持しつつ、なおも他者とお互いを尊重しながら仕事や生活を営んで行かなければならない。

とすれば、交渉ごとなり異質なものの出会いや摩擦においては、適切な「勝負無判定」に持ち込む努力を惜しまない方がいい、ということになる。

大げさな話、だろうか。
でも、「ことば」を尽くす、ということは完璧に等質な理解にたどり着くことではなく、かといって「契約」したのだから、と木で鼻をくくったような門前払いを食わせることでもなく、異質さを丁寧に理解し合った上で「納得」していくことなのだろうと思う。

そのためには、むしろ「等質な理解」を過度に求めないこと、均質化をいらだたしさの中で求めすぎないこと、が大切なのかもしれない。

知識に格差もあり、態度や価値観にも大きな異質性をかかえ、そんな中で「納得」点を見いだし、そこをお互いに大切にしていくこと。

ある場合に危険なのは、むしろ「納得」していないところを「暗黙の了解で済ませ」ようとすることかもしれない。
これも難しいところだけれど、コンパクトに、誰にでも分かる範囲の言葉で丁寧に理解を求めること。それはそういう力のある側がするべきこと、なのだろう。

「異質性」を認識した上での「納得」は、両者の利益を感じるポイントがたとえずれていても、いや、むしろそのズレがあった方がよい場合がありえる。お互いがどこに利益をなぜ感じるのか、が十分に説明されているのならば、その方が「安心度」は高い、とさえ言えるかもしれない。

入院の話に戻れば、医療の場合には「治る」ってことが一番なわけだけれど、どんな状態をもって「治癒」とするのか、だって、患者と医療従事者の側では「ズレ」があるだろう。

自分が医療従事者だったら、あまりに困難な事例は「立ち去り型」の回避をしたくなるだろうなあ、と思ってみたりもする。

消費者=顧客が「完全」な満足を得た、と思うためには、あらかじめその「欲望」をコントロールしておかねばならないだろう。さまざまな方法を用いて。
私たちはむしろ、「完全」な満足を「得た」と思う「パターナル」な上から目線の「結果」ではなく、「不完全」ではあっても、それ相応の「納得」を得つつ、自分自身で自分を「選択」しつづけていく方が「より少なく悪い」。

なんだか、たかだか数ミリのポリープを切除する手術の説明を受けただけで、いろいろ考えさせられて楽しい思いをしたようだ。




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