もしくは國分先生が推薦する本の特徴。
Facebookで書いたんですが、こちらにも。
この本、私なような「素人」でも読めます!
なぜなら、論を進める上での問題の設定と分析の方法が明晰なんですよ。
ワイマール体制をアメリカにいて外側から客観的に(しかも第二次大戦当時に!)、しかも、亡命する前はその体制の政治の真っ只中にいて内情を正確に把握していた人ならではの分析です。
師匠(國分先生)オススメだけのことはあります。
師匠がネット上で敢えて勧める本は、やっぱりをを!ってなります。
もう一冊(関係ないけど)すげえって思ったのは、スピノザとホッブズの聖書解釈を17世紀の政治情勢や宗教的現実を踏まえて論じた、
福岡安都子さんの
『国家?宗教?自由』
です。これも凄い。
何がすごいって、何せまず17世紀における現象の分析をガッチリと、可能な限りリアルに踏まえた上で論じているわけだから、(ちょっと言い過ぎかもしれないけれど).結果として、その問題においては素人であってさえ、明晰に思考の歩みを共有できる可能性がある、という点がすごいのです。
そういうクリアさは、師匠(國分先生)自身の著作(たとえば『スピノザの方法』や『ドゥルーズの哲学原理』)とも共通している明晰さです。
そしてそれは、誤解を恐れずに言えば「圧倒的にわかりやすい」ことでもある。
いわゆる「早分かり」をリミットを取ると「今」の情勢の前提を暗黙に前提し、それに依存した
展開になりかねない。
ありがちなことだ。
國分さんの紹介する本は、議論が可能になる条件を自ら構築しつつ、その対象の中に踏み込んで、しかももうひとつのありがちな「その対象の専門家しかわからない」ところで満足するのではなく、チャンと私たちの生きる「今」に帰ってきてくれるのです。
ただ情勢に合わせて言説を紡ぐのとも違い、一方専門家しか分からない些細な「正解」に立てこもるのでもない場所への往還。
その「往還」を
知性の活動のリミット=「菩薩遊戯」
と仮に呼ぶとするなら、本当に至福のテキスト、かもしれません。
ちょっと「盛り過ぎ」かな(笑)
でも、ポイントはそこだと睨んでいます。
Facebookで書いたんですが、こちらにも。
この本、私なような「素人」でも読めます!
なぜなら、論を進める上での問題の設定と分析の方法が明晰なんですよ。
ワイマール体制をアメリカにいて外側から客観的に(しかも第二次大戦当時に!)、しかも、亡命する前はその体制の政治の真っ只中にいて内情を正確に把握していた人ならではの分析です。
師匠(國分先生)オススメだけのことはあります。
師匠がネット上で敢えて勧める本は、やっぱりをを!ってなります。
もう一冊(関係ないけど)すげえって思ったのは、スピノザとホッブズの聖書解釈を17世紀の政治情勢や宗教的現実を踏まえて論じた、
福岡安都子さんの
『国家?宗教?自由』
です。これも凄い。
何がすごいって、何せまず17世紀における現象の分析をガッチリと、可能な限りリアルに踏まえた上で論じているわけだから、(ちょっと言い過ぎかもしれないけれど).結果として、その問題においては素人であってさえ、明晰に思考の歩みを共有できる可能性がある、という点がすごいのです。
そういうクリアさは、師匠(國分先生)自身の著作(たとえば『スピノザの方法』や『ドゥルーズの哲学原理』)とも共通している明晰さです。
そしてそれは、誤解を恐れずに言えば「圧倒的にわかりやすい」ことでもある。
いわゆる「早分かり」をリミットを取ると「今」の情勢の前提を暗黙に前提し、それに依存した
展開になりかねない。
ありがちなことだ。
國分さんの紹介する本は、議論が可能になる条件を自ら構築しつつ、その対象の中に踏み込んで、しかももうひとつのありがちな「その対象の専門家しかわからない」ところで満足するのではなく、チャンと私たちの生きる「今」に帰ってきてくれるのです。
ただ情勢に合わせて言説を紡ぐのとも違い、一方専門家しか分からない些細な「正解」に立てこもるのでもない場所への往還。
その「往還」を
知性の活動のリミット=「菩薩遊戯」
と仮に呼ぶとするなら、本当に至福のテキスト、かもしれません。
ちょっと「盛り過ぎ」かな(笑)
でも、ポイントはそこだと睨んでいます。