
先日、池上さんのテレビで、ナイチンゲールが衛生環境を整えることに努力した話。今日は母の日のコメントをつけるので調べると、南北戦争の頃に負傷兵(敵兵も)をケアしたのが、アン・ジャービスという女性。
衛生状態の改善に努力したことを称えてバージニア州知事が5月の第2日曜日をマザーズデーに決めたとか。死後娘さんが教会で追悼したときに白いカーネーション(花言葉=私の愛情は生きている)を配ったのが始まり、日本は明治の頃から始まったとある。
八王子空襲で市内は丸焼け、戦後に祖父が建てた家で。祖父母との生活は大変だったと思います。市内に店が建つと祖父母は店の裏に家を建て引っ越し、父の弟が一緒でした。昔のお嫁さんって大変だったのね。
子供の手が離れて看護婦をしたかったようで、履歴書が残っています。父は反対。洋裁や編み物が得意で、孫たちにいつもお揃いの服を縫ってくれました。
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私はオーバーコートやスーツまで作ってもらって、「既製品が着てみたい」とぜいたくなことを言ってました。結婚する時、はじめて伊勢丹でオーダーしたのよ。
母が大好きでした。盲腸の手術の時も「おかぁちゃん おかぁちゃん」と言っていたのは覚えています。しっかりものの母に、反抗して喧嘩もよくしました。家出はしたことがありませんが、犬小屋で犬と一緒にいたり、裏の中学校のバックネットの後ろに居たのが最大の家出。結納の時に大ゲンカ。母が着せたい着物と私が着たいものがちがったのね。両親が亡くなるまで、私もよい母を頑張りました。そんな時代でした。
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