Fさんの日々の記録と山歩き

 山歩きが生き甲斐の団塊世代オッサン、ある事無い事日々感ずるままに綴っていこうと思います。

笈ケ岳(オイズルガケタ)登山

2013年04月30日 | 山歩き

 平成25年4月29日(月) 天気=晴れ後曇り

 

04:43中宮展示館駐車場→ 05:07~24ジライ谷出合→ 06:07大岩→ 06:431250mピーク→ 07:28~38コース分岐(下)→ 08:04~13冬瓜山→ 08:38シリタカ山→ 08:46コース分岐(上)→ 09:10県境尾根出合→ 09:25小笈ケ岳→ 09:32~10:03笈ケ岳→ 10:32コース分岐(上)→ 11:22コース分岐(下)→ 12:101250mピーク→ 12:25大岩→ 13:05ジライ谷出合→ 13:38中宮展示館駐車場

 

 白山の北に聳える笈ケ岳(オイズルガタケ)には登山道が無く、残雪を伝って登れる4月下旬から5月上旬が登山の適期であるが、急峻かつ往復10時間を要する長丁場で、二百名山の中でも特に困難な山と言われてます。老いぼれたら登れそうに無いので絶対今年登ってやろうと思っていた。

 28日の朝我が家を出発、関越道~北陸道を経由して昼前に金沢市内に着いた。ナビで検索してイオンショッピングモールへ向かい、昼食と食料を確保して手取川沿いの国道157号を南下し登山口のある中宮展示館へ向かう。

 一理野温泉の先から始まる白山スーパー林道は数日前開通したばかり、この道を通行できないと1時間以上余分に歩かねばならない。

 中宮展示館駐車場にはPM3時頃着いた。此処も昨日オープンしたばかりで多くの観光客が見学していた。駐車場はトイレや水場、自販機等もあり。車中泊には最適の環境で夜はグッスリ快眠できた。

 中宮展示館の駐車場

 29日AM4時前に起床、駐車場は既に20台程の車で満杯、次々と登山者が出発して行く。私も簡単に朝食を済まし4:43出発する。昨日に続き今朝も天気が良くて絶好の登山日和、気分も高揚するが実は問題が一つある。二日前の仲間内テニスで足腰痛が再発、今も違和感が残っており悪化しないかと気懸りだ。

 蛇谷沿いの遊歩道を進んで行く。途中のトンネル入り口には「通行止め」の標識が設置されているが、登山者は無視して通過していく。20分余で木造休憩舎 のあるジライ谷出合に着いた。暑いので上着を脱ぎ登山用ズボンをトレパンに着替える。

 ジライ谷出合

 ネットで渡渉に苦労したと言われていたジライ谷の沢は水量少なく簡単に渡る事ができた。ここからいきなり尾根の急登が始まる。高度はグングン稼げるがその分きつい登りで、蛇谷沿いの渓流が真下に見え転んだら下まで落っこちそうだ。踏み跡はしっかりついており随所にロープが張られているので助けになる。でもロープの強度は怪しいから、あまり頼りにはできない。

 急登の尾根道

 尾根道の大岩

 尾根の途中にある白い大岩はネットでもお馴染みでコースの良い目印になる。しかし急登は更に続く。尾根上の小さなピーク(1250m)の下あたりから雪が現れた。ピークから冬瓜山や県境の山々が望めた。

 この先は残雪と藪道が交互に現れる痩せ尾根を登って行く。一息入れていたら後ろから山ガール二人の賑やかな話し声が聞こえてきた。彼女らに抜かれたくなかったので脚を早める。ところが彼女らは健脚で中々距離を離せない。私も足腰痛の悪化が心配だからあまり無理できないのに、その内話し声が遠ざかっていった。

 痩せ尾根の道

 樹林が途切れ展望が良い雪原の台地に着いた。数パーティが休んでいる。背後に純白の白山が雄大な眺めだ。山毛欅尾山から冬瓜山へ続く尾根筋までそんなに遠くない。雪尾根をしばらく進みコースの分岐に着いた。

 雪原の台地から白山方面

 

 右折するのは冬瓜山~シリタカ山を経由するコースで直進するのは冬瓜平を経由するトラバースコース、圧倒的にトラバースコースを行く人が多い。私は往復同じコースを歩きたくなかったので、アイゼンを装着して冬瓜山へ向かう。

 雪尾根に時折藪も現れけっこうシンドイ登りが続く。山頂直下はネットで紹介されてたとおり10m程の垂直に近い岩場になっている。だがロープが張られ木の根等の手掛かりも十分あるので以外と容易に通過できた。

 山頂直下の岩場

 冬瓜山(1628m)に着くと若い男性が一人休んでいた。山頂からの展望は良好で、目指す笈ケ岳の雄姿が忽然と現れた。その黒々した山容はどこか奥只見の荒沢岳を思わせる。

 冬瓜山から笈ケ岳方面

 冬瓜山の山頂部には僅か数mだがナイフリッジ状の岩場があり通過時、一寸腰が引けた。その後は緩やかな雪尾根を快適に進んで行く。次のシリタカ山(1699m)は、何も標識は無いが広々とした雪原のピークで360度の展望がある。

 冬瓜山のナイフリッジ状の岩場

 シリタカ山の先少し下った所に冬瓜平経由のコースが合流しており数名の登山者が休憩していた。その合流地点から県境尾根に向かってコースは大きなアップダウンとなっており先行する登山者達が点々とアリのように見える。

 シリタカ山の降りから笈ケ岳方面(少し降った所がコース分岐点)

 長いと思われた県境尾根への登りも意外と早く登り着いた。ここから急登しばしで小笈ケ岳のピークに達すると目指す笈ケ岳は目前、山頂に憩う人達も確認できる。

 小笈ケ岳への登り

 小笈ケ岳から笈ケ岳

 09:32出発してから約5時間で笈ケ岳(1841m)に到着した。念願の山頂だが、7~8名の先着した登山者達で賑わっているせいか感激の思いも薄れ一寸拍子抜けの感じだ。まあでもジンワリと嬉しくなる。

 笈ケ岳山頂

 山頂は低い灌木に覆われているが展望は良く、南は白山の広く膨大な山容が広がり北は尾根続きに大笠山が三角形の優雅な姿だ。此の山の方が笈ケ岳より立派な山容をしている気がする。隣にいた地元の人らしいオバちゃんが頼みもしないのに周囲の山々の名を懇切丁寧に教えてくれた。

 笈ケ岳から白山方面

 笈ケ岳から大笠山方面

 30分程休憩して山頂を後にする。下山時も何人もの人とすれ違う。辺境の山がこんなに盛況とは意外だった。やはり日本2百名山にノミネートされたせいだろう。先程山名を教えてくれたオバちゃんも「昔はこの山を登る人は年に数名程度しかいなかった。」と話していた。

 小笈ケ岳の降り

 シリタカ山手前のコース分岐点で冬瓜平経由のコースを下山する。山腹を横切るこのルートの方が冬瓜山経由のコースよりはるかに楽だ。疎林が点在する冬瓜平の雪原には黄色いテントがポツリと1張設営されており中々絵になる風景だった。

 冬瓜平から笈ケ岳を振り返る。

 下のコース分岐点から痩せ尾根を降って行く。残雪の箇所は今にも陥落しそうな気がして一寸不気味だった。1,250mピークに着くと冬瓜山方面を振返る。もうこの風景を二度と見る事はないだろう。

 1250mピークから冬瓜山を振り返る。

 延々と続く急坂を転げるように降って行く。真下に見える蛇谷の渓流がグングン近づいてくる。大岩を過ぎて20分程でジライ谷出合に降り立った。

やっと安全圏に戻れたと一安心、途端に足腰の痛みが気になりだした。中宮展示館までの遊歩道には行く時気付かなかったが、カタクリやイワカガミ等の花々が咲いていた。

 遊歩道に咲くカタクリの花々

 遊歩道から蛇谷の渓流と雪に覆われた白山スーパー林道

13:38駐車場に到着、約9時間のハードな一日だった。水場で汗まみれの下着を洗濯した後、白山市の吉野地区にある大門温泉センターに移動して汗を流す。ここの温泉は公営でシャンプー・石鹸は無いが入浴料400円とリーズナブルで綺麗なお風呂だった。

温泉を出ると金沢市内のイオンショッピングモールでビールや食材を購入し、金沢西ICから北陸道に入り小矢部SAで車中泊とする。程良い疲れに夕餉のビールが実に美味だった。明日は北アルプスの西穂高岳へ向かう予定だが、脚腰の痛みがどうなるか不安な思いもする。夜は寒冷前線の通過で凄い雷雨となった。 

 

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明日から山へ行ってきます。

2013年04月27日 | 日記

 平成25年4月27日

 昨日は予報が当たって午前中のポカポカ陽気が午後は一瞬にして凄い雷雨となり天気の激変に驚かされました。でもその後綺麗な虹が掛かって一寸良い気分になりました。だからという訳でもないが、明日から山へ行ってきます。久々の雪山なのでちょっぴり緊張していますが、怠惰な日々でボケ老人まっしぐらの気配なので、登山で脳神経を刺激したいと考えています。何処へ行くかは秘密です。登れないとカッコ悪いから、うまく登頂出来たら又旅先からメールでブログしようと思っています。

 昨日の見事な虹

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吉村達也さんの遺作「ヒマラヤの風にのって」を読んで

2013年04月25日 | 読書

 平成25年4月25日 

 図書館で吉村達也さんが書いた「ヒマラヤの風にのって」という本を何気なく借りた。表題と雪山の表紙写真から山に関するものかなと思って読み始めた内容は、彼のエンディングエッセーだった。推理作家である彼の著書は殆ど読んだ記憶は無いが、この本には引込まれた。「進行がん、余命3週間の作家が伝えたかったこと」という副題のとおり、末期がんに侵された吉村氏が、昨年4月23日の入院から5月14日永眠されるまでの僅かな期間を描いたものです。概して闘病記ものは感動や涙を強調するものであるが、吉村氏はそれを嫌い、自身に起きる症状、思い、願い等をリアルに淡々と綴っている。真実を語る強い説得力に眼を離せず数時間で読破した。これほど圧倒される本は久々で改めて死生観を考えさせられた。この内容を書評する能力を私は持たないので、実物を読んで感じてもらえればと思います。「無宗教を誇りとし、墓も戒名も葬儀の仕来りもいらない。普段着のまま火葬して、亡き愛猫の骨と共にヒマラヤの風に散骨して欲しい。」と願い実践した吉村氏の潔いあの世への旅立ちは、密かに私が願う旅立ちの姿でもあります。

 

参照: http://www.yoshimura-tatsuya.com/2012/07/blog-post.html

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朝日新聞コラム「患者を生きる」で胃ガンについて感じた事

2013年04月23日 | 日記

 平成25年4月23日

  朝日新聞が「患者を生きる」というコラムを連載中で、ご覧になった方も多いでしょう。先週は「胃ガン患者」を特集していたので興味深く読みました。と言うのも私は以前胃ガンを患った事があり、モデルになった方の体験と類似点が多く、うなづける点も多々あったからです。この方の場合、胃の入り口付近に発症した為、全摘手術となりました。なまじ胃を残存させると胃酸の逆流でかえって患者が苦しむ結果になるそうです。そして進行度の方は初期段階を越え転移寸前で、術後に「TS1」服用という抗がん剤治療が1年間必要となりました。私の場合は、幸い胃の三分の一を残存できましたが、進行度は初期とは言えず転移の可能性もあったので、同じく「TS1」を2週間服用する治療を受けました。「TS1」は副作用が少なく、私の場合は全く違和感を感じなかったが、モデルの方は吐き気や食欲不振があったそうです。

 ガンの生存率は5年の経過をもって完治とみなしますが、胃ガン全体においては約70%の完治だそうです。しかし日本の医療は胃ガンの分野においては世界の最先端技術を持ち、早期であれば殆ど完治するという事です。私も術後5年を経過するまでは検査の度にヒヤヒヤさせられたものですが、丸10年経過した今はやっと呪縛から逃れた気がします。でも毎年胃と大腸の内視鏡検査だけは欠かさず実行しています。胃ガンの発症は私の人生にとっても大きな節目となっており、そこらの経緯をブログネタとして後述してみようかと思ってます。モデルとなった60代の男性も、強い覚悟と意思を持って病気に立ち向かおうとしておられるようです。彼ならきっと病を打ち負かす事ができるでしょう。

 

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最近、立て続けに左眼の負傷

2013年04月21日 | 日記

 平成25年4月21日 

 妻の病気が完治していないのに今度は私が左眼を負傷した。昨日仲間内のテニスを楽しんでいた時、相手のサーブがバックハンドにきたのでレシーブしようとしたらボールがラケットの縁に当たり私の眼を直撃したのです。"ヘタクソ”と思われたくないから言い訳すると、我々がいつも使用する秋ヶ瀬公園テニスコートは荒川河川敷にあるダートコートで、あまり整備されてないからイレギュラーがしょっちゅうあるんです。でもこんな体験初めてなのでやっぱり反射神経が衰えてるのかな。たかがテニスボールと軽んじていたら、帰りの車中バックミラーで確かめると左眼が真っ赤になっており慌てて近所の眼科医院に駆け込んだ。実は左眼の負傷は最近立て続けで、去年10月東京夢の島での植樹祭で苗木が当たって出血し、その後我が家の戸棚に顔が激突して内出血し、そして今回3回目の負傷、おかげで近所の眼科医院とは顔馴染みになってしまった。しかしこうも続くのは何かあるのだろうか。以前やってた視覚障碍者の伴走や被災地支援といったボランティア活動も、最近は腰痛を理由にすっかりご無沙汰し、我が事ばかり優先する身勝手さが、神の怒りに触れ罰を受けたのではと一寸神妙な思いです。ちょっと考え直さにゃイカンかな。・・・・幸い妻の方は快方に向かっているようでホッと安堵しています。

 

 

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鬼のかく乱、妻の具合が悪くなった。

2013年04月19日 | 日記

 平成25年4月19日

 鬼のかく乱とでもいうのか。普段は殆ど寝込む事の無い妻の具合が、昨夕辺りから急に悪くなった。熱はあるし一晩中セキが止まらない。若しや重篤な病にでも罹っているのではと不安になった。お互い元気な時は口喧嘩が絶えない我々夫婦だが、こんな事態に至るとかけがえのない存在である事を実感させられる。今日も朝ヨーグルトを食べただけで寝込んだ状態、熱を測ると37.9度もあるので、近在の内科医院で診察してもらうとレントゲンに異常は無く、風邪をこじらせたのではという診たてに、取りあえずホッとした。夕食にお寿司を一寸つまんだだけで再び寝込んだ妻が明日は回復してくれるだろうと念じつつ、今宵このブログを綴っています。

 

 

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ヒカゲツツジの咲く山、甲州、坪山

2013年04月18日 | 山歩き

 甲州、坪山

平成25年4月17日(水)   天気=晴れ

 

07:40登山口駐車場 → 07:50坪山登山口→(東コース)08:55~59坪山→ 09:10西コース(メンバーと合流)→ 09:30~46坪山→ 10:22~55 1034mピーク→ 11:49登山道分岐→ 12:15羽置ノ里びりゅう館

 

 大菩薩と奥多摩の間の山域は地味な山々が多く、坪山はその中にあっても目立たない山です。ところが山の月刊誌「山と渓谷4月号」でその坪山が特集になっており、「小さいながらも急峻な山道とヒカゲツツジの大群落が咲き誇る。」と載っていた。

 「これは面白そうな山だな。」と思い、いつもの山仲間、Iさん夫妻やSさんを誘って我々夫婦の5人で出掛けてみました。中央道、上野原ICで降りて鶴川沿いの一般道を遡る事40分、下山予定地の「羽置の里びりゅう館」の駐車場にIさんの車を残置し、私の車でそこから1キロ程遡った鶴川沿いの駐車場に車を停める。

 支度を終えると出発する。小さな橋を渡り対岸を少し進むと登山口の標識があった。脇には小さいながらも清潔そうなトイレがあり、それを見た私は急に便意を催したので皆さんには先行してもらう。スッキリ用事を果たした後メンバーを追って登って行く。

 

 坪山登山口

 登山口の集落

 此処から坪山へは東コースと西コース二つの登山道がある。ヒカゲツツジの群落は西コースが圧倒的に多いので、むろん西コースを登る計画であった。早くメンバーに追いつこうと焦る私は、登ってすぐに左に分岐する薄い踏み跡を東コースと思い込み、間違いなく西コースを登っていると確信して脚を早める。

 ところが行けども行けどもメンバーに追いつかない。脚力が衰えているのかなあと不安にもなったが、登山道を観察すると直前に歩かれた形跡がない。「ハハーン彼等は誤って東コースに入ったのだな。」と推察し、試しに大声でコールしてみると、あらぬ方向から微かなコールが返ってきた。

 そのうちザックに収めた携帯が鳴ったので慌てて取り出したら切れてしまった。こちらからは圏外で通じない。仕方ないどうせ頂上で会えるだろうからその時、嫌味の一つでも言ってやらねばと思いつつ登って行く。

 しかし特集でも書いていたとおり急な道が続く。斜面を横切る道が多いので右脚が痛くなってくる。頂上が近づくにつれ、恐竜の背のような狭い岩尾根の道になってきた。しかし肝心のヒカゲツツジがあまり咲いていない。結局群落と呼べる程の花は見ないまま。登山口からちょうど1時間で坪山(1102m)に達した。

東コース岩尾根の道

 山頂には単独のオジサンがポツリと居た。「花が少ないですねー。」と声を掛けると「コッチの道はいっぱい咲いてたよ。」と別の道を指差した。そこで初めて気付いた。「俺の方が間違って東コースを登ったんだ。」と、Sさんに携帯を掛けると「いつまで経っても来ないからどうしたのかと思ったよ。」と言われてしまった。返す言葉が無い。

 ボーッと頂上に居ても仕方ないので西コースを降ってみる。しばらく降ってメンバーと再会した。妻が「下界じゃ頼りないけど山じゃもう少しマシだと思ってたのに。」と嫌味を言われた。笑って誤魔化すしかない。

 実際見ると確かに西コースの方がヒガゲツツジの花が多い。下の方がもっと咲いていたと言われるのは一寸悔しいが、

 西コースのヒカゲツツジ群落

 再び山頂に登り返し全員で記念の写真を撮る。周囲はヤブに囲まれ良い展望では無いが、鶴峠を挟んで相対する三頭山と奈良倉山等の山々が望まれる。狭い山頂は埃っぽいので、ランチタイムの場所を求めて先へ進む。

 坪山山頂で記念写真

 山頂から降りの道も痩せ尾根で滑り易く歩き辛い。だんだん生暖かい風が強まってきた。油断すると帽子が飛ばされそうだ。右下のガレ場を覗くと山桜の木々に清楚なうすピンク色の花々が咲き、美しい風景を描いていた。

 ガレ場に咲く山桜

 標高1034mピークの所でランチタイムとする。風が強いので私はガソリンコンロの使用を諦める。Sさんがガスコンロに火をつけスープをご馳走してくれた。野菜の具沢山スープは実に美味く、これにオカカかシャケのオニギリでもあれば最高の贅沢なんですが、

 1034mピークでランチタイム

 休憩を終えて再び歩き始める。小さなアップダウンを繰返す気持ちの良い尾根道が続く。道の右側はあまり手入れされてない植林帯で薄暗く陰気な雰囲気だが、左側は新緑の自然林で明るい爽やかな雰囲気、あまりにも対照的な眺めが逆に面白い。鶴川沿いの集落が意外な近さで左手の木々の合間から見え隠れしている。

後方から4~5名の元気の良い中年女性グループが我々に近づいて来た。道を譲ろうとしたら彼女らは追いつくと同時に休憩タイムで脚を停めた。

 更に幾つかの小さなピークを越えて進むと、尾根を直進する道と左へ降る道の分岐点が現れた。尾根道はロープで行く手を遮られて踏み跡も薄い。左へ曲がる明瞭な道は羽置の里びりゅう館へ至る道だ。

 我々も左に曲がりびりゅう館へと降って行く。下山の道は良く整備されとても歩き易い。又道沿いは個性的な巨木が点在し、印象的な眺めで楽しませてくれる。

 下山道の巨木

 分岐から30分も掛からず意外とアッケなくびりゅう館の建物に降り立った。

びりゅう館では地元のお土産品販売の他食堂も併設しており、山歩きでお腹がすいていたせいもあるけれど注文した蕎麦はコシがあって中々美味かった。

 羽置の里びりゅう館に到着

その後、車で鶴峠を越えて小菅村の「小菅の湯」へ向い、温泉にゆったり浸かって登山の汗と疲れを癒す。これぞ至福のひと時、あとは冷たいビールが飲めればパーフェクトなんだけど、この後ハンドル握んなきゃいけないんで我慢々々、今回も楽しい山行ができました。

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金正恩を秘かに応援する人々

2013年04月14日 | 日記

 平成25年4月14日 

 隣国に住む金正恩という男が今世界の注目を浴びている。祖父の金日成は、朝鮮戦争を引き起し何百万人もの命を奪った張本人、父の金正日は、外国人拉致、偽札作り、麻薬密輸の重大犯罪首謀者、孫悟空劇で猪八戒をやらせればノーメイクでピタリはまり役の三代目、正恩は、こんな極悪人の血脈をしっかり受け継いでいるようで、困窮する国民を尻目に核兵器・ミサイル等の莫大な軍事予算ばかりを浪費する。それはスケールこそ違え、暴力団が勢力拡大の為チャカやドスをかき集めるのと全く同じヤリ口、意に染まぬ隣国へヒステリックに威嚇するところは、これ又スケールこそ違え、奈良の騒音オバはんと全く同じ精神構造、暴力団や奈良の騒音オバはんは警察に頼めば罰してもらえるが、北朝鮮に関しては同じ独裁国家グループの大親分、中国が裏からコッソリ支えてくれるのでやりたい放題、正に無法者国家の真骨頂、朝鮮半島の平和は諸悪の根源、金一族の消滅以外有りえない。30歳になったばかりの軍隊経験もない若造が、大元帥様とおだてられて自分の父親ほども年上の軍人達にエラソーな訓示をたれたり、戦車に乗ったり射撃したりで大はしゃぎする様は、滑稽な猿芝居を見ているようだ。世界のグローバル化が進む中で、この愚か者はいずれ悲惨な末路を辿るだろう。でもね正恩君、そんな君でも密かに応援してる人々が日本やアメリカにいるんだよ。それは誰だって?、「憲法9条を改正して日本を普通の国にしよう。」と叫んでいる人達や、それから国防予算削減で将来に不安を感じているアメリカ軍事産業の方々です。これらの人達は、口じゃ批判していても内心「もっと頑張って」とエールを送っているはずだから君もあまり悲観しないでね。・・・・アッ猪八戒何か応援するつもり無かったのに、つい激励してしまった。

・・・・最後に一言、こんなブログ載せた私が、もし北朝鮮在住だったら今頃は強制収容所にぶち込まれ明日にも処刑の身、つくづく日本人で良かったな。

   

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山梨県、二十六夜山~棚ノ入山登山

2013年04月11日 | 山歩き

平成25年4月10日(水)     天気=曇り

 

07:55尾崎バス停(旧県道)→ 08:07鉄製ゲート→ 09:08二十六夜塔→ 09:12~25二十六夜山→ 09:52三日月峠→ 10:37~11:21棚ノ入山(三角点)→ 11:25~31無生野分岐(棚ノ入山標柱)→ 12:16日向舟→ 12:33~38雛鶴峠→ 12:48~50高岩→ 12:57~59雛鶴峠→ 13:05旧道出合→ 13:21県道出合

 

 山梨県には上野原市と都留市に「二十六夜山」という名前の山がそれぞれにある。「二十六夜」をネットで検索すると旧暦26日の事で、江戸時代にはこの日の夜に月の出を祝う風習があったそうです。山名もそれの関連があるのでしょう。都留市の山は既に登っているので、今回は上野原市(旧秋山村)の二十六夜山を登ってきました。

 車に折畳み自転車を積込、早朝我が家を出発する。中央高速道相模湖ICで降りると相模川の支流、秋山川を遡る。川沿いの地域は以前秋山村と呼ばれ鄙びた山村だったが、いつの間にか合併して上野原市に変わっている。

 上野原市と都留市の境にある雛鶴峠を結ぶ旧道と新道の合流地点に自転車を残置して、二十六夜山の登山道がある尾崎集落まで戻る。登山案内板近くに無人の工事現場が有ったのでそこに駐車したら、付近にいた中年の交通警備員のオジサンに、「下の旧道路側帯に停めてくれ。」と言われ、尾崎バス停近くの旧道路側帯に車を停める。

 旧道の駐車場所

 準備を終えると集落の細い急な舗装道を登って行く。周囲の家々は花々が咲き、美しい日本の原風景を見るようで心和む。野良仕事中のオバちゃんが「二十六夜山登山かね。」と声を掛けてくれ、登山口への道筋を教えてくれた。

 登山口には頑丈な鉄製ゲートがあり、此処を潜って登山道が始まる。オバちゃんが言うには害獣避けに設置されたらしい。ゲート横には錆びついたブランコ等がある小さな公園がある。遠い昔は大勢の子供たちがいたのかな。

 登山口のゲート

 しばらく小さな沢沿いに遡る。やがて沢を離れ左手山腹の電光型に刻まれた道をジグザグに登って行く。今朝は4月とは思えぬ冷え込みで日差しも弱いのだが絶え間ない急登に身体が汗ばんでくる。

 尾根に辿りつくと一気に寒風が吹き渡り、熱った身体に心地よい。この後は尾根道を登って行く。二十六夜山は山梨百名山に選ばれているせいか、登山道は良く整備されており迷う心配は無い。

 登山口のゲートからちょうど1時間で山頂への分岐点に着いた。平坦な疎林の中に丸い石塔が建立されており「二十六夜塔」と字が刻まれている。昔の村人が此処で酒宴を繰広げて深夜の月の出を祝っていたのであろうか。

 登山道分岐にある二十六夜石塔

 分岐から200m程で二十六夜山(972m)に到着した。疎林に囲まれた静かで何の変哲もない山頂だが山梨百名山の一つをゲット、此処で最初の休憩をとる。休憩を終えると分岐まで戻り、棚ノ入山へ向けて進む。

 二十六夜山山頂

 しばらく進み小さなピークを越えた辺りで道がおかしいと気づく。持参したGPSで確認すると、次の通過ポイント三日月峠が近づくはずなのに遠くなっている。小さなピークまで戻って地図とコンパスを照合した結果、左へ派生する尾根が棚ノ入山への正しいルートと判断し、ほとんど踏み跡の無いその尾根を数百m伝うと三日月峠の標柱が現れた。

 道を誤った原因は、二十六夜山だけ登る登山者が大多数の為、山頂から浜平集落への下山道が圧倒的に明瞭で、棚ノ入山へ向かう尾根道は山林作業のせいで踏み跡が消失している為だ。道なりに歩くと下山道に引き込まれてしまう。

 三日月峠の標識

 峠から浜平集落への道が通じているが大雨被害で大きく損傷していた。この先はしばらく林間の緩やかなアップダウンが続く。右側山腹が大崩壊した地点からは北に展望が開き、高尾や奥多摩の山々が臨まれた。

 棚ノ入山が近づくと標高差200mの急登が始まる。一気登りなので中々手強い。左手の谷間を見下ろすと白い建造物が見える。リニアモーターカーの施設のようで、リニア新幹線はこの山の直下を貫いているのだ。鄙びた山村と最新鋭技術の重なる景色が皮肉な風景となっている。

 前方に聳える棚ノ入山

 

 やがて傾斜が緩み三角点の設置した高みに到着した。標識は無いがここが地図上の棚ノ入山の最高点(1117m)になる。シートを広げコンロでお湯を沸かして昼食タイムとする。南側が伐採されているので谷を挟んで並列する道志山地が展望できる。

 棚ノ入山(三角点)

 棚ノ入山から道志、朝日山方面

 寒気が流入しているのか雲が厚くなり雷がゴロゴロ鳴り始めた。その音に追われるように出発する。5分程進むと無生野集落へ降る薄い踏み跡が右に分岐していた。その少し先には道志山地の朝日山へ向かう道が左に分岐している。ここは地図上ではサンショ平と記載された登山道の交差する地点だが、「棚ノ入山」と書かれた標識があったので記念の写真を撮る。サンショ平からは、北の雛鶴峠に向けて緩急織り交ぜた道をグングン降って行く。

 棚ノ入山(標識地点)

 途中にある小さなピーク日向舟(927m)へはちょっとの登り返しだが、急なのでけっこうきつかった。更に降って行くと道の両側に展望が広がる。右は秋山川流域の山々や集落、左は大菩薩や中央沿線の山々の、道志山地の尾根越しに富士山の白い頭も見える。

 峠への降り道から大菩薩、三つ峠山方面(眼下の白い建物はリニア新幹線の施設?)

 降り道から雛鶴峠、高岩方面

程なく最低鞍部の雛鶴峠に着いた。左右に降る道がある。妻が峠で休憩している間、私は空身で北に位置する高岩をピストンする。10分で登り着いた高岩(900m)は、木に小さな看板が打ち付けられただけの簡素な山頂だった。足下にはゴルフ場の緑の芝生が見えた。

 峠に戻ると妻と共に下山する。5分程で旧道のトンネル出口傍に着いた。トンネルは既に封鎖されており、もうこの道を車が往来する事は無いのだろう。落石が散乱した旧道を15分程降って、新しい県道との合流地点に着いた。

 残置していた自転車を組立てると、サドルに跨り車を停めている尾崎集落に向け県道を一気に降って行く。自転車でダウンヒルを疾走するのは痛快でけっこう面白い。車に戻るとザックと自転車を積込み、歩いて降る妻をピックアップする。

 その後、秋山川の下流にある上野原市営の秋山温泉(大人700円)に寄って山の汗と疲れを流す。温泉は地元の人でソコソコ賑わっていたが、洗い場のお湯が出なかったりしてヤヤ不満足、本当は近くにある藤野町営やまなみ温泉に入りたかったのだが休館日なので仕方なかった。

 今日歩いた山域は地味で魅力に乏しく訪れる人が少ない。でもそれだけに誰にも会わない静寂な山歩きを楽しむ事ができ、満足の山行だった。

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40年前のバカ青春時代が懐かしい。

2013年04月08日 | 日記

 平成25年4月8日

 昨日、古い友人のM氏とI氏を我が家に招き、久し振りに酒を酌み交わした。我々3人は40年程前同じ職場で勤務した同期の間柄です。その後は勤務先も異なり顔を合わす機会も減りましたが、年に数回細く長く付き合いを続けており、不器用で社交下手な私には数少ないありがたい友人です。40年前と言えば20代前半で青春真っ盛り、人生で一番輝かしい時代の筈ですが、振り返ると80~90%は顔をしかめたくなるような辛い嫌な事ばかりの日々でした。ジジイ3人がそんな昔の出来事を酒の肴に笑い飛ばしていると、40年前のバカ丸出し青年時代に戻ったような気分です。長い熟成を経て美味しいワインが出来るように、辛い嫌な記憶も長い年月を経れば、ほろ苦く切なく甘く懐かしい思い出と変るような気がします。そこが人生の救いかも知れませんね。Mさん・Iさん世間に何と言われてもしぶとく慎ましく生きて、時々バカ青年時代に戻りましょう。

 

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埼玉県朝霞市の米軍跡地の今

2013年04月06日 | 日記

  平成25年4月6日

 月に数回、主に荒川河川敷の秋ヶ瀬公園で、下手の横好きテニスをやっているのだが、抽選が当たったので朝霞市の青葉台公園テニスコートを初めて訪れました。朝霞市は以前勤務先があった大変懐かしい場所です。私が朝霞に勤務し始めた40年程前は、市の中心部にノースキャンプという大きな米軍基地があり、ちょうど今の沖縄みたいな状況でした。一度基地内を見学してレストランでデッカイビーフステーキを食った思い出があります。英語を学ぶ人がよく聞くという在日米軍ラジオ局もここから放送していたと聞いています。今は日本に返還されて、学校や各種施設等に生れ変り昔の面影は殆どありません。テニスコートがある青葉台公園も此処に造られています。2年前、国家公務員宿舎を建設しようとして、「東北大震災直後なのに不謹慎な、そんな金があれば被災地へまわせ。」とマスメディアから猛反発を受けたのもこの場所でした。国民が被災地支援でナーバスになっているところに無神経なゴーサインを出すのだから、まあ時期が最悪でした。現在でもかなりの米軍跡地は有休地のままなので、案外今だったら大した反対も無く建設が実行されたのではないかという気がします。関東近辺に点在する既存の宿舎を売却して建設費に充当すればそんなに金もかからないだろうし、多くの公務員が転入すれば市の財政が潤う事になり、朝霞市にとって悪い話では無いという気もしますが、

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我が街で増えてきたのは「マッサージ店」と「学習塾」

2013年04月03日 | 日記

 平成25年4月3日

 私の住むT市は埼玉のド田舎(地理的に言えば県の中央部なんだけどね。)にあり、日本人の100人に聞いたらおそらく95人は知らないと答えるであろうありふれた街だが、長年6万人台で推移していた市の人口が近頃やっと7万人の大台にのった。人口減少に転じた日本にあってこれは嬉しい出来事と言えます。そんな街中で最近やたら増えたと思うのは「マッサージ店」と「学習塾」、高齢化が進んでいるから「マッサージ店」の増加は理解できるのだが、子供が減っているのに「学習塾」が繁盛するのは不思議な気もする。団塊世代の私が幼少だった頃は、近所は貧乏人の子沢山ばかりだったから教育費の余裕はなかったのだろうが、少子化の現在、子供にかける教育費が大幅に増加したという事なのだろう。我が家のマンションからも眼下に学習塾が臨め、夜遅くまで勉強に励む子供達の姿を見て感心すると同時に、何かが違うのじゃないかと思う違和感もある。勉強嫌いの果てに不甲斐ない人生を歩んできた私が言うのではあまり説得力も無いけれど・・・・

 

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「埼玉発天空行地上と宇宙をつなぐ天文学の歴史」講演会

2013年04月01日 | 天文

  平成25年4月1日

 先日図書館に行った時、ある講演会のパンフレットが眼についた。「埼玉発天空行地上と宇宙をつなぐ天文学の歴史」と書かれている。私は理数系はからきし無知なくせして惑星や星雲、星団、ブラックホール何て言葉が好きで、天文学と聞いただけで無性にロマンを感じてしまうのです。「入場無料、どなたでも参加できます。」という条件、暇つぶしちょうどいいと講演当日開催場所のさいたま市にある埼玉大学の殺風景な1号館講義室へ足を運びました。私みたいな暇人が大勢訪れて盛況かと思ったら、400名は入る実内は4割程空席があり一寸意外でした。PM1:30から始まった講義には天文学分野の第一人者である東大教授等3名の先生方が、私のような素人にも解り易いようザックバランに話してくれました。それぞれの内容は「宇宙空間から宇宙を見る=宇宙ステーションや人工衛星等の装置を使い、赤外線観測等でブラックホールや超新星を謎を解明するという話。」「埼玉の堂平天文台90㎝望遠鏡からハワイの8mスバル望遠鏡へ、更に将来は30m口径の次世代超大型望遠鏡を建設するという話。この望遠鏡で見ると東京から京都の距離にある500円玉の模様が判り、月面にいる蛍の光が認識できるそうです。」そして「南米アタカマ砂漠に建設中のアルマ巨大電波望遠鏡群でビッグバンから139億年経った宇宙誕生の謎にせまるという話」、私の脳ミソでは7割方理解不能でしたが、途方もないスケールだけは感じられて3時間半の講演をけっこう興味深く聴講できました。世知辛い世情を忘れ、しばし宇宙のロマンに思いを馳せるのも悪くはないものですね。

 講演会場

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