「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

光市母子殺害事件 差し戻し審(7)

2007年05月28日 23時54分21秒 | 光市母子殺害事件
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47867166.html からの続き)

 日本の裁判は 明治政府になった時、仇討ちを禁止して、

 その代わりに 国が被告を罰する という形になったため、

 応報刑の性質を帯びていました。

 もっともそれが、被害者を完全に 蚊帳の外に置いてしまう格好になり、

 長い間 犯罪被害者が一顧だにされない 問題を起こしてしまったわけです。

 そして 犯罪被害者支援の運動の黎明期に、

 本村さんの存在が与えた影響は 絶大なものがありました。

 下手な弁護士は叶わないほど 理路整然と、人の「心」に訴える 本村さんの言葉は、

 生き地獄を くぐり抜けてきた者にしかない、痛切な説得力があります。

 かくいう僕も、元々は 死刑制度廃止の立場でしたが、

 今は そう言い切れなくなっています。

 人々が 被害者感情の峻烈さを知るに及び、

 体感治安の悪化と相まって、厳罰化の方向へ 進んできています。

(僕はそれよりも、被害者の傷を癒すプログラム,加害者の矯正プログラムの

 研究・実践が、何よりも必要だと 考えるものです。)
 

 日本の判例主義は 以前から論じられています。

 死刑に関しては、1983年の永山判決で、

 次の厳格な条件を 満たす必要があると定められました。
 
 1:犯行の罪質

 2:動機

 3:事件の態様 (残虐性)

 4:結果の重要性 (殺害数)

 5:遺族の被害感情

 6:社会的影響

 7:犯人の年齢

 8:前科

 9:犯行後の情状

 今回の21人の弁護団は、近年これらの基準が なし崩しになり、

 本来 無期懲役である者が 死刑になってしまうとして、

 死刑の基準の厳しさを 取り戻さなければ、

 これから先も 更に死刑判決が出やすくなってしまう と主張しています。

 これに対して本村さんは、

 永山基準は 法曹界の運用のための基準であって、法律ではない、

 個々の事件や 時代によって 基準は見直されるべきだ と訴えています。

(4の 被害者の人数については、

 被害者が一人の場合は 死刑にならないという、形式的なものがありましたが、

 昨今 少女への性的暴行殺人などが相次ぎ、一人でも 死刑判決の例が出てきています。)
 

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48536162.html
 
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