「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

宗教体験

2009年02月17日 21時21分00秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 僕もクリストフと同じように 苦しみの中から あるとき突然、

 いかずちに打たれたように 凄まじいインスピレーションが 降りてきました。

 苦しんでいるのは 自分だけではない、

 自分は 全ての魂と繋がっていると 体得したのです。

「 もし僕が ここで死んでも、 自分と同じ魂を 持った人達が、

 僕のできなかったことを やっていってくれる。

 僕は魂によって 彼らと繋がっている。

 自分は一人ではないのだ。 」

 それは啓示であり、 宗教体験と 言っていいものでした。

 思想や理論ではなく、 明確なイメージで 感知することができたのです。

 手塚治虫さんの 「火の鳥」 の コスモゾーンのようなものかもしれません。

 本当は 決まった形などないのでしょう。

 ただ人間は イメージがないと理解できないため、

 自分に捉えられる形で 認識するのだと思います。

「 あらゆる魂は ひとつに繋がっている。

 全ての命は ひとつのものである。 」

( 「ジャン・クリストフ」 )

「 悲しみも その極度に達すれば、 救済に到達する。

 人の魂を 挫き悩まし 根底から破壊するものは、

 凡庸なる 悲しみや喜びである。 」

「 よしや我、 神の御手に 殺さるるとも、

 我はなお、 神に希みを かけざるを得ざるなり。 」

 この一節の 「神」 を、 僕は 「人生」 に置き換えました。

「 もし僕が 人生に殺されたとしても、 それでもなお、

 僕は人生に 希みをかけずにはいられない。 」

「 人生はいつかまた 僕を裏切るだろう。

 しかし、 僕こそはもはや 人生を裏切ってはならないのだ。 」

「 幸福なときにではなく、 最も苦しいときに、

 それを感じ取ることができた。

 感じ取れるものが 自分の中にあった。

 自分はもう 生涯幸せになることはできないだろうと 苛まれていたなかから、

(正にそのとき) 絶望ではなく希望が、 憎しみではなく愛が、

 自らのうちに甦ってきた。

 この底知れない希望は、 果たして何なのだろうか?

 一体どこから やって来たものなのだろうか?

 これはもはや 『あるもの』 から 自分のうちに与えられたのだ、

 としか、 僕には思えない。

 与えてくれたもの、 信じさせてくれたものの 存在を、

 僕は 渇仰しないわけにはいかない。 」

(次の記事に続く)
 
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