「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (16)

2015年03月09日 20時18分41秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【BPD患者の 〈生きづらさ〉 は、
 
 貴戸理恵の言う 「関係的な生きづらさ」 に 近いものではなかろうか。
 
(中略)
 
第二章で取り上げた 心子の 「病状」 も、
 
心子のメンタルな 個体の失調というより、
 
心子と稲本、 あるいは 心子と周りの人たちとのあいだの
 
関係性の失調と考えた方がよい。】
 
 BPD患者の生きづらさが 人間関係のものであるというのは、
 
 その通りだろうと思います。
 
 BPDはコミュニケーションの障害である という人もいます。
 
 統合失調症やうつ病など 他の精神障害と違って、
 
 BPDは 人との関わりなしに 症状は起きてきません。
 
 DSMの診断基準も、 大半が 対人関係の中から生じてくるものです。
 
 従って、 周りの人や社会のほうが変われば、 BPDの人との関係も変わり、
 
 BPDの人の生きづらさも 違ってくるでしょう。
 
 生きづらさは BPD個人の問題だけでなく、 社会の問題でもあると言えるでしょう。
 
 ただし、 コミュニケーションの障害ということは、
 
 コミュニケーション能力の障害ということで、
 
 BPDの人が 適切なコミュニケーション能力を 身に付ければ、
 
 生きづらさも減ってきます。
 
  「関係」 というからには、 一方だけの問題ではなく、
 
 双方が関わり方を考えることで、 関係は変わってくるはずです。
 
 生きづらさの原因が 社会にだけあるとは、 ちょっと言い難いのではないでしょうか。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (15)

2015年03月08日 19時53分15秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 次に、 以下の点について 考えてみたいと思います。
 
【 《ボーダーの人は 人格の 「核」 ができていないので、
 
 苦しみや悲しみに向かい合う力が きわめて弱いと考えられる。
 
 葛藤を冷静に見つめたり、 自省する自我ができていない。
 
 心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
 生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。》
 
(中略)
 
稲本はここで、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題を、
 
 「人格」 「メンタリティ」 「心の障害」 「自我」 といった
 
個人の問題に還元させてしまい、
 
 「適切な愛情」 の問題へと 帰着してしまっている。
 
(中略)
 
個人の問題に焦点を当てることは、 社会的不正義の問題を 霧消させてしまうのだ。】
 
 野崎さんは、 BPDの人の生きづらさを、
 
 BPD個人の問題より 社会の問題という立場で 主張しているため、
 
 特にこのように強調されるのでしょう。
 
 しかしこれは なかなか難しい命題だと思います。
 
 例えば、 身体障害者の場合なら、 周囲の人々の理解や協力があり、
 
 バリアフリーのインフラがあり、 制度も整っている社会であれば、
 
 身体障害者の人は 健康な人と比べて 日常に多少の不便はあるとしても、
 
 生きづらさを感じることはないでしょう。
 
 そのような社会は 誰もが反対しないだろうと言えますが、
 
 心の障害の場合、 それほど簡単にはいかないように思えます。
 
 人の資質にはあらゆるものがあり、 ひとつの性質が 長所にも短所にもなり、
 
 生きやすさにも生きにくさにもなり得ますから、
 
 何を基準にして 社会を変えればよいかというのは、
 
 容易に言えないのではないでしょうか。
 
 これに関しては、 どのような社会が望ましいか、 求めていくべきかということは、
 
 個々人の価値観によって 異なってくるだろうと思われます。
 
(次の記事に続く)
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (14)

2015年03月06日 21時43分44秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【 「伝統的な価値観」 が、  「伝統的」 であるだけで 正しいとは限らない。
 
 むしろ 伝統的価値観に基づいた  「父親や母親の役割」 は、
 
 社会において 女性を不当に抑圧してきたことは、
 
 フェミニズムが指摘してきたとおりである。】
 
 拙著では、 本論ではないため 言葉が足りなかったようですが、
 
 僕は 林道義先生の 「父性の復権」 (中公新書) に 基づいて述べています。
 
 (林先生は 河合隼雄さんに先んじ、 正統なユングを 日本に紹介した方で、
 
 僕も林先生の下で ユングを勉強しました。)
 
 林先生は フェミニズムに異議を唱え、  「父性の復権」〔*注〕 で
 
 父性 (父親「的」役割) の重要性の 再構築を主張されました。
 
 〔*注: 「父権の復活」 ではないことが重要です。〕
 
 父性, 母性は 父親にも母親にもありますが、
 
 基本的には 父性は父親, 母性は母親が 主に担うことが望ましいと、
 
 林先生は述べています。
 
 もちろん 家族が多様化した現代では 様々な形があるでしょうし、
 
 母親役割を女性に押しつけて 女性を抑圧してはならないのは、
 
 言うまでもないことです。
 
 伝統的な父性, 母性そのものは、 時代が変わっても必要で、
 
 子供の健全な発育に 大切な役割を果たします。
 
 しかし現代は 父性, 母性の存在自体が揺らいできて、
 
 まだ枠組みができていない子供は 何をモデルしてよいか分からず、
 
 価値観を築いていくのに 影響があるだろうということを述べています。
 
 拙著では、  「父親や母親の役割」 という 言葉を使ってしまいましたが、
 
  「父性や母性」 という 言い方をすればよかったと思います。
 
 舌足らずだったために、
 
 僕が 伝統的なものを安易に肯定していると 野崎さんは受け取り、
 
  「稲本の叙述は不可解である」 と 述べたのでしょう。
 
 拙著の執筆に当たっては、 推敲の上にも推敲を重ねましたが、
 
 未だ不充分だった点を指摘され、 ありがたくも遺憾な思いがします。
 
 
 さて、 ここでいう伝統的価値観とは、
 
  「正義」 でも 「優しさ」 でも 「誠実」 でも、
 
 望ましいものなら何でもよく、
 
 子供が人格形成をする過程で まず規範とすべきものです。
 
 自分の核ができてから (未熟でも)、 その伝統的価値観を 自分自身で見直し、
 
 本当に正しいのか批判したり、 変化, 展開させていけばよいものです。
 
 ある程度成長すれば、 世の中の不正にも 目が向いていくでしょう。
 
 ところが現代のように、 あらゆる価値観が相対化してしまうと、
 
 子供は 人格の核を育てる際の 柱を見失い、
 
 BPDの発症に関わるのではないか という趣旨です。
 
【BPD患者は、 そのような世の中の不正には 敏感なのである。】
 
 という野崎さんの趣旨とは、 論点を異にしていると思います。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (13)

2015年03月05日 21時12分29秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【BPD患者は、  「世の常識に染まることがない」 ゆえに
 
 〈生きづらさ〉 を感じる
 
(中略)
 
だとすれば、 次のような稲本の叙述は不可解である。

《ボーダーの人は、 本来発達するべき人格が できなかったと言える。
 
(中略)
 
子供に適切な愛情を 与えられない親が増加し、
 
子供の健全なメンタリティの発育が 妨げられることと 関係しているかもしれない。
 
現代は 父親や母親の役割をはじめ、 世の中の伝統的な 価値観の枠が揺らぎ、
 
確固として人格の形成が しにくくなっている。
 
境界性パーソナリティ障害は、 ボーダーレス時代の 象徴的な心の障害だと思う。
 
(中略)
 
ボーダーの人は 人格の 「核」 ができていないので、
 
苦しみや悲しみに向かい合う力が きわめて弱いと考えられる。
 
葛藤を冷静に見つめたり、 自省する自我ができていない。
 
心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。》
 
(中略)
 
稲本はここで、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題を、
 
「人格」 「メンタリティ」 「心の障害」 「自我」 といった 個人の問題に
 
還元させてしまい、  「適切な愛情」 の問題へと 帰着してしまっている。
 
また、 「伝統的な価値観」 が、  「伝統的」 であるだけで 正しいとは限らない。
 
むしろ伝統的価値観に基づいた  「父親や母親の役割」 は、
 
社会において 女性を不当に抑圧してきたことは、
 
フェミニズムが指摘してきたとおりである。
 
BPD患者は、 そのような世の中の不正には 敏感なのである。
 
(中略)
 
個人の問題に焦点を当てることは、
 
社会的不正義の問題を 霧消させてしまうのだ。
 
また、 言動の否定と生存の否定とを 結びつけてしまうのは、
 
BPD患者の責任でもなんでもない。
 
私たちの社会が、 正しいやり方で議論をし、
 
何ごとかを決定する段を ふまえないからこそ、
 
こうしたことが BPD患者の 〈生きづらさ〉 となって 現れてしまうのではないか。
 
つまり、  「主張の否定が人格の否定ではない」  ということを、
 
社会に根づかせる必要が あるということである。】
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (12)

2015年03月03日 19時54分10秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【 [21] 矛盾するようだが、
 
 BPD患者は時として  「妥協を許さない」 態度とはまったく正反対の
 
  「諦念する」 という態度をとる。
 
 しかし これも考えてみれば、 みずからが傷つかないように
 
  「0か1か」 の思考パターンが 身についてしまった
 
 BPD患者の特徴なのかもしれない。】
 
 心子にもこういうことがありました。
 
 僕と再会し、
 
 会社の苛めを 労災として認めさせたいと、 労働運動をしていたときのことです。
 
 《心子は、 職場の卑劣ないじめを 許したくないと言い、
 
 他のいじめに 苦しむ人たちのためにも、
 
 自分が精神的苦痛の労災認定の 前例になりたいと悲願を訴えた。
 
 例え 自分がちっぽけなアリであっても、
 
 世の中の理不尽という 巨象に立ち向かうことを はばからないのだ。》
 
 《心子はいじめに遭って 不快感で嘔吐し、 心身ぼろぼろになって、
 
 二度と立ちなおれないほど 打ちのめされてしまう。
 
 ガラス細工のような か弱さである。
 
 「一%でも可能性があれば 全力を尽くす!」
 
 そう言って 悲壮な気構えを見せた 翌日には、 
 
 「もうだめ……  何をやっても無駄……」
 
 と泣き崩れた。 
 
 まるでオセロのようである。
 
 ひとつでも黒に変わると、
 
 それまであった白が 瞬時にして 全て真っ黒になってしまう。
 
 百かゼロか、 どちらかしかない。
 
 中間がないのだ。》
 
 《心子はロマンチストで モラルを尊ぶ反面、
 
 世間は薄汚く、 きれいごとが通るわけはないと 見限っていたりした。
 
 そして ペシミスティックなことを言っては 僕を困らせた。
 
 でも純潔なゆえに 追求するものが高く、 そして打ち破られ、
 
 失意が高じて 何もかも捨ててしまいたい心理になるのは、 僕にはうなずけた。》
 
 野崎さんの論文は こう続きます。
 
【 「みずからが傷つかないように」 と述べたが、
 
  「どうしようもなく みずからをメチャクチャにしたい」  という願望も、
 
 おそらくは持っている。
 
 根底にある  「自分など必要とされない、 自分が生きていても価値がない」
 
 という思いが、 そのような願望を 抱かせてしまうのである。】
 
 これに当たる心子もいます。
 
 子供の人格に交替して、 自分の喉を突き刺そうと 繰り返していた時期のことです。
 
 《心子は 自分自身を抱きしめることができないのだ。
 
 人の犠牲になったり、 正義のためなら破滅しても 潔しとする心子だが、
 
 森本先生によれば、
 
 心子には自分をメチャメチャにしたい 無意識の自分があるのだという。
 
 それもやはり トラウマから生起してきたものである。》
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (11)

2015年03月02日 20時10分33秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【他人には 「私はどう生きていけばよいのか」 などという問いは、
 
 端的に言って答えられないものである。
 
 それを、 場面1における心子は問わずにはいられない状況だった。
 
〔*稲本・注: 場面1 → http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/64496357.html 〕
 
(中略)
 
 「このような問いに 私はとらわれているからこそ、 私は生きづらい」
 
 と解釈してもよいのではなかろうか。】
 
 拙著から引用された 「場面1」のエピソードは、
 
 「BPDの人と接するときは 巻き込まれないようにする」 という
 
 例として記したものでした。
 
 野崎さんは、 このエピソードに出てくる 心子の僕への詰問を取り上げ、
 
 BPDの人の生きづらさについて 考察しています。
 
 「どう生きていったらいいの!?  彼氏なら教えて!」
 
 という心子の問い詰めに、 僕は内心動揺し、
 
 そのとき答えなければと しばし焦っていました。
 
 「それも 白か黒かを求めてるってことだよ。
 
 ひとつの答えはないんだよ」
 
 と、 僕はかろうじて 取り澄まし答えました。
 
 でも野崎さんの言うように、
 
 「答えようのない問いに とらわれるほどの生きづらさ」 に
 
 目を向けることができていたら、
 
 もう少し落ち着いて、 心子に違った態度を 示せたかもしれません。
 
 「どう生きていいか分からないくらい 辛いんだね」
 
 というような対応ができたかもしれません。
 
 もちろんそれで 心子が満足するとも思えませんが。
 
 “どちらに転んでも恨まれる” と言われる、 ボーダーの人との袋小路ですが、
 
 僕自身が落ち着いているための 術にはなったのではないかと思います。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (10)

2015年03月01日 20時44分04秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 野崎さんの論文は以上です。
 
 BPDの人の生きづらさの原因を、 本人より社会に求める姿勢は、
 
 BPDの人に望みを 与えるものではないでしょうか。
 
 それは 僕も当初から述べている、
 
 社会に BPDの理解が広まることで、 本人や周りの人の 辛さが減っていく、
 
 という考えと 重なるものがあると思います。
 
 そもそも DSMのパーソナリティ障害の定義は、
 
 その人が属する文化から 期待されるものから著しく偏った 内面や行動、
 
 というものです。
 
 従って、 文化のほうが変われば、
 
 その人は パーソナリティ障害ではなくなるかもしれません。
 
 周囲が期待するものが変われば、
 
 パーソナリティ障害の行動や内面は 偏ったものではなくなり、
 
 本人も周囲の人も 生きやすくなっていくのではないでしょうか。
 
 そういう意味でも、 BPDへの正しい理解をし、
 
 適切な接し方が できるようになっていければといます。
 
 それは非常に難しく 長い年月もかかるわけですが、 それを求めていきたいものです。
 
 
 さて、 その他にも 野崎さんの論文に、
 
 順次 少しずつコメントを 書かせてもらいたいと思います。
 
【BPD患者の恋人である者 (中略) の 手記を使う利点としては、
 
 家族ほどには 利害関係が多くはないことが挙げられる。
 
(中略)
 
 親のほうも  「正しい理解を示すこと」 より
 
  「毎日の現実をまわすこと」 に追われ、 よき伴走者になれない場合が多い。】
 
 これはその通りだと思います。
 
 特に心子は、 普段はとてもチャーミングで、 楽しく気持ちよく過ごせました。
 
 (BPDは 人によって非常に異なり、
 
 常に脅威だけの存在になってしまう BPDの人も多いのですが。)
 
 心子と どんなに苛酷なことがあっても、 相殺して余りある魅力があり、
 
 それだから一緒にいられたのです。
 
 でも親には 恋人のような蜜月がなく (ある場合もあると思いますが)、
 
 同居していれば四六時中一緒で、
 
 息を抜くときもなくて 本当に大変なのではないかと思います。
 
【自分を持て余してしまう BPD患者当人とは違った目で、
 
 ときに外側から、 また ときに内側に迫って書くことが、
 
 恋人にはできるのではないだろうか。】
 
 という記述は、 ありがたいものでした。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 
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