玄米ごはん族のあしたのたのしみへ

玄米と野菜、果物で今日から明日へ。農業と穀物菜食の日々

注連縄を奉納、お手伝いをしました

2022-10-03 00:22:02 | おつきあい
来年、
組頭くみがしら
の順番なので
注連縄しめなわ
奉納の
お手伝いをしました。
注連縄は住職様に
拝んでいただきました。
毘沙門様
びしゃもんさま
へ奉納、
それから
宇賀神社様
うがじんじゃさま
へ奉納しました。

朝から快晴、
気持ちの良い
一日でした。

毘沙門様へ奉納。




宇賀神社様へ奉納。



当農園は
毘沙田びしゃだ
を委託されています。
毘沙門様と毘沙田、
宇賀神社様との関係を
混同されることが
ありますので、
宇賀神社宮司様の
見解を要約します。
以下の文章の
全責任は当農園に
あります。
ーーーーーー
ーーーーー
毘沙田は宇賀神社様と
ともにありました。
江戸時代の娯楽は
集まって宴会、
財源が毘沙田でした。
宴会を毘沙と
言っていました。
毘沙が始まったのは
鎌倉、室町時代
と言われています。
江戸時代には
この地域を含め
県南はほぼ天領でした。
幕府のもとで
神仏習合が進みました。
ここでは
毘沙門様と
宇賀神社様が
隣どうしになっています。
毘沙の季節になると
毘沙門様に旗が立てられ
境内で相撲が奉納
されました。
地区の氏子の慣習と
なりましたが、
宇賀神社様は
関係ありません。
氏子が
行っていることです。
宇賀神社様の
おつきあいは
家々の氏神様です。
ここでは、
注連縄が毘沙門様に
奉納されますが、
その経緯については
今の宮司様の前に
何代も宮司様が
交代されているので
わかりません。
ーーーーー
ーーーーーー
以上、宇賀神社様と
毘沙の宴会は、
直接的な関係がない、
との見解を
示されています。
同時に
毘沙田は宇賀神社様の
氏子の宴会の
費用の出どころ、
とも言われています。
当農園では
宮司様の見解をもとに
以下のように
これまでの経過を
想像しました。

今までの経過を見ると、
相撲がなくなり、
旗も立てられなくなり、
毘沙の宴会の
参加者が減少し、
数年前宴会そのものが
なくなりました。
農家が農業をやめて
大農家へ委託
するようになり、
毘沙の宴会で
相談するような
ことがなくなり、
参加意欲がなくなり
めんどうになり。 

本来の
宇賀神社様と
氏子の氏神様の関係、
それだけにもどりつつ
あるように思えます。
今までの
様々な行事は
機械化とともに消滅が
当たり前になっています。
その中で
注連縄奉納だけ
残りました。
現実の世界と
聖域を分ける、
と言われる注連縄です。
毘沙門様のほうが
はるかに大きいので、
大きいほうから、
と考えるのも
当たり前です。
宇賀神社様担当の
宮司様が不在となれば
なおさらです。
以上、当農園の想像です。
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