玄米ごはん族のあしたのたのしみへ

玄米と野菜、果物で今日から明日へ。農業と穀物菜食の日々

お供え餅を納めました

2019-12-31 19:55:08 | 日記
 今日、お寺様にお供え餅を納めました。有機栽培で無農薬、無肥料で作ったモチ米を専門家様のところへ持って行き加工を依頼して作ってもらいました。ずいぶん大きなお餅で、こんなに大きくはとても作れないと思いました。



 
 専門家様のところへモチ米を持って行き、できたお供え餅を持ってきただけ。たぶん、当家始まって以来のすごいことです。

 江戸時代の諺、餅はもち屋、そのものでした。原料は自分で作ったものなので当家のお供え餅です。


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わかるかどうか

2019-12-31 00:45:06 | おつきあい
大飲大食の法則は少飲少食の法則の一部分なので、集合を取り入れて考えたこともそのまま当てはまる。宴会で並んだ料理の一品でも食べれば主催者と時間、場を共有できる。それができるのは集合で見た場合、大飲大食の法則が少飲少食の法則の一部だからだ。
 たいがい逆に考えているので負けないように大飲大食してしまう。脱落しないようにか。まともな法則である少飲少食の法則で進まないと。
 大飲大食の人が少飲少食の人のやっていることがわからないのは一部でしかないからだ。一部は全体がわからない。

 相手をわかるには相手より少飲少食にすれば良いことになる。相手が一部になり自分のほうは全体になる。たとえ数日間でも腹ぺこになったほうが相手を理解できるかもしれない。少飲少食の法則は導き出す過程で環境も考えているのでそれができるだろう。
 しかし、競争で勝者になることとは別の問題だ。
 この法則はどちらがどちらを、より理解できるか、を示しているだけだ。
 考えてみると、理解できれば、後は対策を立てることができるので自ずから進んで行く。

 普通の食事でこの法則を導いたので穀物菜食でももちろん適用できる。この法則は食事の質によらないで量だけで成り立っている。
 それでは、穀物菜食と普通食ではどうなるか。大飲大食のほうが少飲少食のほうの一部になるので、そのあとの話は上記と同じだ。
 穀物菜食をしていても相手より大飲大食になっていると、見透かされてしまう。
 穀物菜食で医療費が0に近い、と自慢しても、グーーーンと引っ込み思案なのは穀物菜食以外に何も食べたくないということもあるが、自分より少飲少食している人に見透かされてしまうことが本能的にわかっているからだ。
 しかし、穀物菜食の人間がどれほど腹一杯にしても普通食の人にはとても及ばない。それを考えれば少飲少食の法則上、穀物菜食の人間を見透かすような人はいないことになる。逆に穀物菜食の人間には普通食の人が良くわかるのでお付き合いもドンピシャリ決まるはずだ。法則上そうなる。
 穀物菜食、普通食にかかわらず相手が自分より少飲少食の場合、そういう人には見透かされてしまう。そして、相手のやっていることがわからなくなる。


 過去の経験からものすごい少飲少食の習慣をもつ父は大飲大食していたものぐさ人間を見透かしていたことになるが、それなら、なぜ、穀物菜食にならなかったのだろう。穀物菜食にならなくても見透かせる、と思ったからだ。
 それが今では父のやっていることが良くわかるようになり、少飲少食の法則まで進んだ。ものぐさ人間が少飲少食を実行すればするほど父はものぐさ人間がわからなくなる。

 それはマズイ。

 本人がボケたかと思うと本当にボケになるらしい。ここまでか、と思わせないようにするには、ものぐさ人間をいつでも見透かせる自信をつけておけばよい。見透かせれば良いのだが、それには、ものぐさ人間より少飲少食にするしかない。それは、これから先、不可能。それではどうすれば良いか。
 相対的に大飲大食の人に少飲少食の人間を見透かせる方法はあるのかーーーーー
 

 ーーー父のことは考えないでもーーー

 なんだかんだで、お付き合いは、めんどうなことだ。食べるものが違う、という現実はどうしようもない。
 穀物菜食などくだらない、とはなからバカにされていて、それで、今まで宴会対策を考えてきたが、心の底にあったものが具体的に、少飲少食の法則、となってより良い対応が可能になった。

 こういうことがわかると、ますますおつきあいがめんどうになり、きっと、ものぐさ人間はあいもかわらず表面的なもので終わらせて、さっさとーーーーーー

 どうすれば見透かしてもらえるようになるか、という問題は、時間と場の共有以外に将来がどうなっているか、だ。将来を見ることができるかどうか、否定的な将来でも見えれば、見透かしたことになる。できれば、肯定的な将来を見てもらいたいが。

 否定的な将来しか見てもらっていないような。

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法則の例外

2019-12-30 03:14:01 | おつきあい
 少飲少食でまんべんなく箸をつけ味見していると、ずいぶん行儀が悪いと思われるかもしれない。若い人は小さいころから出されたものは残さないで全部食べること、と教えられているのでマナー違反だ。
 父が育ったナイナイずくしの時代は少飲少食で残すものなどないが、飽食の時代には残さないように教えられるので、まんべんなく味見して残すようなことをやっていては教えられたこととちがうので、嫌がられるだろう。
 ところが、大飲大食していて残さない流儀の人が大勢いいても、少飲少食の人のやっていることは目に入らないので誰も気がつかない。逆に少飲少食の人から見ると大飲大食の人がやっていることは良くわかる。ずいぶん入るなあ、どこへはいっているんだろう、などと。

 物が豊かになった時代の大飲大食でも、食べなければならないもの、不足するものがたくさんあり、あれもこれも食べなければ大変なことになると言われている。大飲大食の法則は実行がたいへんなことだ。その法則を信じて、普通の食事では少飲少食はできるわけがない、と誰もが思っている。
 穀物菜食を実行している人間も、その法則から普通の料理で少飲少食にしたら栄養失調になる、と思っていた。だが、どんな法則にも例外がある。その例外はずいぶん身近な人で、普通の料理で少飲少食だった。

 大飲大食の法則上、普通の料理は大飲大食だけでは体が持たないので、あれも食べてこれも食べろ、と難しいことになっている。物があふれていて大飲大食してそれでも何かが足りないから補わなければならない、と法則に従うと際限もなく食べるものが増える。
 法則の例外の人は簡単そのものの食事をしている。戦前戦中のナイナイずくし時代に成長した人には少飲少食が、ズバリ当てはまっている。その時代は粗食で済ませる以外どうしようもなく、量も足りないので、成長期を粗食の少飲少食で過ごす以外になかった。

 大飲大食の法則の例外のほうが断然まともに見える。普通の料理でも少飲少食にすれば健康を保つことができるのだから。それに、長寿になっているのだから。
 大飲大食の法則からすると少飲少食は例外で気がつかないし、ごく少数だろうが、現実に少飲少食の人がいるのだから、法則はやぶれている。
 大飲大食の法則よりまともな普遍的な法則があることに気がつく。それは、誰もが認めたくない全く逆の思考の法則になり、人体のエネルギー収支計算の足し算と引き算からわかった
  
  少飲少食の法則
 
誰もが認めたくないが、大飲大食の法則の例外をスーーーーーーーっと説明できる。

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損失が変数、出力は一定

2019-12-29 00:25:18 | おつきあい
 穀物菜食を始めてから少飲少食と言う言葉を知った。穀物菜食のことだけを考えていたので普通の食事をしている人も少飲少食をしていることなど考えられなかった。それにもかかわらず、ちょっと前まで穀物菜食をしているにもかかわらず大飲大食をしているくせに少飲少食の人を少飲少食をしているとは気がつかないで無礼にも自分の基準で評価しようとした。とんでもない話だ。大飲大食の頭では少飲少食の人について、料理に満足しないで少しずつつまんでいる贅沢な料理になれている人、としか見えない。
 
 人体のエネルギーの収支計算をするとき、たいがいの法則は
  
 出力=入力-損失

なのでこの式をあてはめる。どんな人でも出力は同じで一定とすると、

 入力=損失+出力

のようになり、入力と損失は正比例の関係だ。損失が最小で0に近いと

 最小入力=0+出力=出力

になり、少飲少食はこれだろう、と思える。損失が最大では

 最大入力=最大損失+出力

となって、大飲大食がこれだ。
 最大損失は消化不良が起こっている状態だ。入ったものがろくに消化されず出てしまう状態。
 もし、横になっていたり座っていたりしていて出力が少ないとき、入力を多くすると損失が大きくなる。入れた物がそのまま出ていく形。
 ホッと仕事が終わりくつろいでいても大飲大食の習慣はなくならないので最大損失が続いている。

 最大入力と言っても飲食には限度があるので病気になると出力を減少させてつりあわせるようになる。
 病気は損失が減少しないで反対に増加するので出力を減少させて、
 出力=最低生命維持力 まで減少させて

 最大入力=最大損失+最低生命維持力
 
 なので、

  病気は大飲大食のなれのはて、

と言うことがわかる。
 常識では、少飲少食ではだんだん病気になる、となっているが、それは逆で、足し算引き算を使って、大飲大食が病気の出発点であり、なれのはてだとわかった。

 何をすれば良いか。損失0の食事をすることが前提になり、そのうえで、出力アップを計画すれば良い。

  入力=出力

の式で出力を変数と考えれば良い。
 出力が変数ではなく、出力一定、の条件では損失が変数になり、入力が増加すれば損失も比例して増加する。ところが、損失は変数になるはずがない、変数は出力だ、と考えている。それだから、

 出力一定

という条件からして受け入れることができない。
 工業製品は、
  入力=出力+固定的な損失、
だが、人体は
  入力=損失+固定出力、
であり損失が変数だ。
 損失が変数だなんて、そんなくだらない、と受け入れることができない。世の中が自分の存在とは無関係に動いていく、という感覚なので、こんなもの認めたら、普通はガックリだ。
 認めたくないものを認めると少飲少食などすぐにできる。誰だってそんなことあるはずがない、と思っている。進歩の遅いものぐさ人間は、少飲少食のなんたるかを数十年かけてやっと理解したらしいが、父を見ていてわからなかったのだから、いったいどこに目をつけていたのか。 
 父は、いつ、自分と世の中を分離できたのか。若い頃働き盛りで腰を痛めたらしいが。

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基本は少飲少食だがたまにはーーー

2019-12-28 00:48:52 | おつきあい
 以前、自然食レストランでの昼食で家にないメニューがあると物珍しさもあってここぞとばかり大食いしていた。すると頼もしいと思ってしまうのだから穀物菜食の原則から外れていても気にならない。やっているほうは家にいる気分で大食いできるのだから最高だろう。
 父は昔からなんでも食べて、穀物菜食など相手にしない。それでも、ごくまれに父を誘うと、ひとつも箸がすすまないのでやはり穀物採食は嫌いか、と思った。今考えると少食なのでまんべんなく箸はつけるが味わうぐらいですませていた、とわかかる。いくら穀物菜食とはいえ大飲大食をしていた人間には少飲少食などわからないし気がつかない、ということだ。
 今考えると、決して嫌いなわけではなく少食にしていただけということに気がついた。自然食レストランばかりでなく父はどんなところでも少食だった。これに気がつかなかった。メニューに関係なくすべての料理に手をつけるが、味見するだけのように少量しか食べない。ものたりないのかな、味が気に入らないのかな、と周囲には思われた。興味がないなら次回はもっと高級なところしかない、と思わせた。
 ものぐさ人間は最初からいらないの話しかしないので相手にされないので気楽だ。
 ものすごく身近なところで何が行われていたのか、どういうことなのかわからなかった。片方はガツガツ大食い、かたやうまいともまずいとも言わないでちょっと箸をつけるだけ、なので比べて、興味なし、嫌いなのだろう、と思ったのは当たりまえ、何が不足なのだろう、とも思った。
 少食多種型と大食小種型を比較していたことになる。そういう比較は間違いだった。判断する基準からして定性的だった。今はどれだけ少飲少食なのか、ということを判断の基準にするので定量的になった。

 穀物菜食の人間が少飲少食になったのは、つい最近なのに父ははるか前からだ。成長期がナイナイずくしの時代で穀物菜食は簡単にできた。今、穀物菜食にしようとしてもあまりにも飲食物がありすぎてたいへん難しいのだが、ものぐさ人間が苦労して少飲少食になったのに比べて当たり前のように少飲少食を実行していた。

 穀物採食は少飲少食が基本原則。父は基本を守っている。ところが、穀物菜食でも大飲大食のほうの人間が、基本に忠実な人を評価していたのだから結論はとんでもない方向へ行ってしまう。何と無礼なことをしたのだろう。

 ナイナイずくしの時代に育った粗食に耐えたものすごい体が少飲少食で長生きしているのに、そのあとの世代は高カロリーなのだからもっと前世代より少飲少食になって医療費は劇的に低下するはずだが、結果は逆で何もかも高くなり、高カロリーなのにあれがたりないこれがたりないと言われて大飲大食になっている。まるでつじつまがあわない。
 誰もが大飲大食が普通だと思っているので大飲大食を基準に物事を判断してしまうので間違ってしまう。少飲少食を基準にすべきだ。

 ナイナイずくしの父の成長期の時代は粗食しかない。努力しなくても自然に穀物採食に近いことになっている。後の世代の高カロリー時代では粗食しようにも周りに様々の食物があるので、できない。何が基準になるかもわからなくなり勘違いする。
 
 簡単に考えても、粗食で少飲少食、ならば、高カロリー食では極少飲極少食になるはずだが実際は逆になっている。高カロリー時代には栄養が満たされているはずなのに後から後からあれもこれも必要だといわれ高カロリー高級料理であるにも関わらず大飲大食になり食費も高くなり、少食少飲になるのはずいぶん難しい。健康な人でも病院、お薬、定期検査、精密検査、などなど心配ごとがたえない。
 それにひきかえ、歯医者様にだけ数年に一回行くか行かないかのものぐさ人間の医療費は0みたいなものだ。大飲大食でも穀物菜食なら健康を保てる、ということかもしれない。

 それなら、穀物菜食で、たまには息抜きに遊びにストレス発散に意思疎通にパーティー、宴会、お食事会を開いて大飲大食しても健康は維持できることになる。
 ものぐさ人間が実例になるか。年末年始は実験のチャンスだが、やるかやめるか。数ヶ月前までやっていた大飲大食をやれば良いだけだが、やれと言ってはたしてーーーーーー



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