大飲大食の法則は少飲少食の法則の一部分なので、集合を取り入れて考えたこともそのまま当てはまる。宴会で並んだ料理の一品でも食べれば主催者と時間、場を共有できる。それができるのは集合で見た場合、大飲大食の法則が少飲少食の法則の一部だからだ。
たいがい逆に考えているので負けないように大飲大食してしまう。脱落しないようにか。まともな法則である少飲少食の法則で進まないと。
大飲大食の人が少飲少食の人のやっていることがわからないのは一部でしかないからだ。一部は全体がわからない。
相手をわかるには相手より少飲少食にすれば良いことになる。相手が一部になり自分のほうは全体になる。たとえ数日間でも腹ぺこになったほうが相手を理解できるかもしれない。少飲少食の法則は導き出す過程で環境も考えているのでそれができるだろう。
しかし、競争で勝者になることとは別の問題だ。
この法則はどちらがどちらを、より理解できるか、を示しているだけだ。
考えてみると、理解できれば、後は対策を立てることができるので自ずから進んで行く。
普通の食事でこの法則を導いたので穀物菜食でももちろん適用できる。この法則は食事の質によらないで量だけで成り立っている。
それでは、穀物菜食と普通食ではどうなるか。大飲大食のほうが少飲少食のほうの一部になるので、そのあとの話は上記と同じだ。
穀物菜食をしていても相手より大飲大食になっていると、見透かされてしまう。
穀物菜食で医療費が0に近い、と自慢しても、グーーーンと引っ込み思案なのは穀物菜食以外に何も食べたくないということもあるが、自分より少飲少食している人に見透かされてしまうことが本能的にわかっているからだ。
しかし、穀物菜食の人間がどれほど腹一杯にしても普通食の人にはとても及ばない。それを考えれば少飲少食の法則上、穀物菜食の人間を見透かすような人はいないことになる。逆に穀物菜食の人間には普通食の人が良くわかるのでお付き合いもドンピシャリ決まるはずだ。法則上そうなる。
穀物菜食、普通食にかかわらず相手が自分より少飲少食の場合、そういう人には見透かされてしまう。そして、相手のやっていることがわからなくなる。
過去の経験からものすごい少飲少食の習慣をもつ父は大飲大食していたものぐさ人間を見透かしていたことになるが、それなら、なぜ、穀物菜食にならなかったのだろう。穀物菜食にならなくても見透かせる、と思ったからだ。
それが今では父のやっていることが良くわかるようになり、少飲少食の法則まで進んだ。ものぐさ人間が少飲少食を実行すればするほど父はものぐさ人間がわからなくなる。
それはマズイ。
本人がボケたかと思うと本当にボケになるらしい。ここまでか、と思わせないようにするには、ものぐさ人間をいつでも見透かせる自信をつけておけばよい。見透かせれば良いのだが、それには、ものぐさ人間より少飲少食にするしかない。それは、これから先、不可能。それではどうすれば良いか。
相対的に大飲大食の人に少飲少食の人間を見透かせる方法はあるのかーーーーー
ーーー父のことは考えないでもーーー
なんだかんだで、お付き合いは、めんどうなことだ。食べるものが違う、という現実はどうしようもない。
穀物菜食などくだらない、とはなからバカにされていて、それで、今まで宴会対策を考えてきたが、心の底にあったものが具体的に、少飲少食の法則、となってより良い対応が可能になった。
こういうことがわかると、ますますおつきあいがめんどうになり、きっと、ものぐさ人間はあいもかわらず表面的なもので終わらせて、さっさとーーーーーー
どうすれば見透かしてもらえるようになるか、という問題は、時間と場の共有以外に将来がどうなっているか、だ。将来を見ることができるかどうか、否定的な将来でも見えれば、見透かしたことになる。できれば、肯定的な将来を見てもらいたいが。
否定的な将来しか見てもらっていないような。