婦人公論.jp
https://fujinkoron.jp/articles/-/1033
上皇后陛下に本をお渡ししたら
山岸 純おじちゃまとは先日、徳川慶喜に関する講演をした時に、久しぶりに再会したのよね。
井手 講演したのは、徳川慶喜公終焉の地。二百六十余年に及ぶ、世界で類を見ないほど長期の治世は大政奉還によって終止符を打たれたわけだけど、江戸城を明け渡した慶喜はいくつかの地に移り住み、1901(明治34)年以降は、当時の町名から「第六天」と呼ばれた東京・小石川の屋敷に住んでいたんだ。
山岸 今は、国際仏教学大学院大学になっているわね。
井手 僕の母も、母の兄で美喜ちゃんの祖父にあたる徳川慶光も、第六天で生まれ育った。戦後、戦火を免れた第六天は、華族制度が廃止されたため、国に物納されています。
山岸 純おじちゃまに会ったのは、私の母の葬儀以来だったから……。
井手 24年ぶりかな。僕の母は、自叙伝『徳川おてんば姫』を書き終えて、やっと刊行した直後の2018年7月に、95歳で大往生したんだ。
山岸 ホッとなさったのね。
井手 葬儀の際は、今の上皇上皇后両陛下をはじめ、天皇皇后両陛下、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家からお花やお供物をいただきました。その御礼で記帳にうかがい、母の著書を上皇陛下の侍従長にお渡ししたところ、ある日突然、上皇后陛下の侍女長から電話がかかってきて――。「皇后さま(当時)が本をお読みになり、大変懐かしかったとおっしゃっていたので、それをお伝えするために電話しました」、と。思わず背筋が伸びたし、なんてお優しい方だろう、と感激したよ。
山岸 私は、慶喜家の当主だった叔父・慶朝が病気に臥してからの4年間、名古屋の自宅から叔父のいる茨城まで毎週看病のために通ったの。2年前に叔父が亡くなったことで慶喜家は絶え、遺言で財産の管財人を任されることになりました。
井手 慶朝は僕の従兄弟にあたるわけだけど、子どもの頃は家が近かったこともあって、しょっちゅう一緒に遊んでいた。夏になると、伯母の和様(徳川慶光夫人の和子さん)が、かき氷の出前を頼んでくれるのが楽しみでね。僕らは和様のこと、おたぁちゃまと呼んでいた。そして母や慶光の姉が、高松宮妃喜久子殿下。僕の父は、高松宮邸の隣で開業医をしていたので、従兄弟たちと御殿のプールで遊んだのをよく覚えている。
「ありがとう」は「おそれいります」
山岸 私も、妃殿下にはよくお会いする機会がありました。それは皇族の方にお目にかかる、というより、家族の集まり、という雰囲気。慶喜家はご実家なので、私たちのことをたびたび気にかけて、素敵なバッグを譲ってくださったり、かわいいお人形をくださったり。特にお正月は、毎年御殿にご挨拶に行ったわね。
井手 あれは、夢のような時間だったなあ。別世界だもの。
山岸 大広間があって、シャンデリアがあって。
山岸 その器が、また素敵なのよね。
井手 そして5、6間あるような細長いテーブルに、おせち料理がダーッと並べられている。
山岸 羽子板の形をした漆塗りの器が並んでいるのだけど、ひとつひとつに違うお料理が盛られていて、それが圧巻の美しさ。
井手 妃殿下のお誕生日が12月26日、新年を迎えて1月3日が高松宮宣仁殿下のお誕生日だから、年末年始はおめでたい日が続いていた。新年祝賀の儀のあと、皇族方は正装のまま高松宮邸に集まるのが習わしで、母はお茶出しのお手伝いに行っていたんだ。「お姉様、お写真を撮らせていただいていいかしら」と、趣味だったカメラで撮影した写真を、母はずっと大切にしていました。
山岸 雛飾りも見事だったわよね。雛段に飾られた小さな笥の引き出しのひとつひとつにまで、ちゃんとお着物が入っているの。お雛祭りで忘れられないのは、小学4年生頃のこと。御殿に上がったら、お食事に北京ダックが出てきて。この世にこんなにおいしいものがあるのか、と大感激しました。でも実は、子どもがご馳走をガツガツ食べるとみっともないからって、伺う直前に家でごはんを食べさせられていて――。お腹がいっぱいで山盛りの北京ダックを少ししか食べられなかった無念を、今も覚えています。(笑)
井手 御殿に上がる時は、母から言葉遣いも注意されたね。
山岸 そうそう。子どもは、3つの言葉しか使ってはいけないって言われた。「こんにちは」や「ありがとう」はNG。「こんにちは」は?
井手 「ごきげんよう」。「ありがとう」は「おそれいります」。
山岸 「失礼します」もダメで、「ごめんあそばせ」。