南京攻略後、日本軍により難民にお菓子やタバコが配られた。画像http://eng.the-liberty.com/2014/5210/
「南京大虐殺」の虚構――南京攻略の経過
[HRPニュースファイル1068]
http://hrp-newsfile.jp/2014/1589/
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩
◆嘘の歴史で「日本包囲網」の形成する中国
「南京大虐殺」とは、1937(昭和12)年12 月13 日、松井岩根大将率いる日本軍が国民党政府(蒋介石)の首都であった南京を制圧した(南京戦)際に、日本軍が20万人、30万人の民間人を殺害したと言われている事件です。
この「南京大虐殺」について、今年3月、中国政府が「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」に関する資料を国連教育科学文化機関である「ユネスコ」に「記憶遺産」として登録申請しました。
今後「南京大虐殺」が、国際的な話題になることは間違いありません。中国の目的は、「南京大虐殺」を世界に喧伝することで世界的な日本包囲網を形成し日本を追い詰めることです。
このままでは、中国がつくった“虚構”の歴史が“事実”として後世に伝わり、私たちの先人は汚名を着せられるばかりではなく、さらに私たちの子孫は、未来永劫、世界中で嘘の歴史を理由に責められることでしょう。
ですから、現在、生を受けている者として、歴史をしっかりと検証し世界に説明する務めがあります。これは、「歴史観に関する言論戦」ともいえるもので、ニュースファイルでも継続して「南京大虐殺」はあったのか、検証して参ります。
また弊党は、中国の暴挙を止めるため7月26日には、「中国による『南京大虐殺』『従軍慰安婦』のユネスコ記憶遺産登録申請は暴挙だ!!デモ」(http://info.hr-party.jp/2014/3190/)を計画しています。
◆日本が南京に進軍した理由
そもそも、日本軍はなぜ「南京」まで行かねばならなかったのでしょうか。「南京戦」のきっけになったのは、昭和12年8月に起こった「第二次上海事変」です。
上海で国民党軍に包囲され在留邦人の安全を確保するため、日本は上海派遣軍を派遣しました。苦戦しながらも最終的に日本軍は上海を制圧したのですが、国民党軍は上海から揚子江を約300キロ、さかのぼった首都南京に逃げて行きました。
これを放置しておくと国民党軍は態勢を整え、再度上海に攻めてくる可能性があったため、日本軍は一気に降伏を迫るため、南京に軍を進めました。この戦いが昭和12年12月の「南京戦」です。
南京の街は城壁で囲まれています。城壁の長さは東京の山手線と同じくらいです。12月9日に、日本軍の一部は南京城壁にたどり着き、いよいよ城内に入る準備が整いました。
◆日本軍の降伏勧告と国民党軍の南京脱出
南京城内には、松井大将が尊敬していた「孫文」のお墓があり、戦場になれば損傷することもある、そこで日本軍も勢いがあったので「もう勝負はついた」と、松井大将は国民党軍に10日のお昼まで降伏するよう勧告を出しました。
しかし国民党軍を率いる蒋介石は、南京防衛戦の総指揮官であった唐生智(とうせいち)に「南京を死守せよ」と命令を出していました。その時、蒋介石は南京にはいなかったのですが、唐生智は蒋介石の命令に背くことができず、日本の降伏勧告を拒否しました。
それで日本軍の攻撃が始まり、12月12日になると城壁南の中華門に日本軍が軍を進めました。12日の夜、戦闘は終わり、翌13日から戦闘が再開する段になったのです。
ところが日本の攻撃に、ついに南京を守れないと判断した唐生智は12日の夜、それぞれの部隊に、集結場所と日時を指定して「日本軍の包囲網をかいくぐって脱出するよう」に命令しました。
唐生智は、早々と南京城の北西にある下関(シャーカン)から揚子江を渡って南京から脱出しました。残った国民党軍の残存兵は陸路脱出を始めたのです。
夜が明けて翌13日朝、日本軍が攻撃を始めると、昨日から一転して、国民党軍の反撃がありません。間もなく国民党軍が撤退したと分かり、日本軍の部隊が東の中山門からどんどん入城しました。
まだ北西の城壁には敵軍がおり戦闘がありましたが、それでも13日に半分の日本軍部隊が城内に入り、東京では「南京陥落」と発表されました。ただ、これですべての戦闘が終わったわけではありません。
◆残存兵の掃討戦
日本軍の包囲網を突破する残存兵と、また脱出しきれない残存兵の一部は、一般市民を保護するための「難民区」に市民の格好をして紛れ込みました。「難民区」とは、アメリカなどの外国の宣教師が一般市民を保護するため設けたものです。
南京市の人口は、もともとには100万人でしたが、身の危険を感じた市民は南京を後にし、揚子江を渡って漢口に逃げ、日本軍が南京に入城した12月には、市民の人口は約20万人に減っており、戦火を逃れるために前述の「難民区」に避難していました。
その「難民区」に国民党軍の残存兵が紛れ込んでいます。日本軍も、一般市民と思って見過ごした場合、不意打ちに発砲され戦死者が出てはたまりません。
ですから、日本軍が掃討戦を行うことは国際的にも非難できませんし、国際法では、兵士が市民に変装して戦うことは禁止されています。
よって日本軍は13日に南京陥落しましたが、入城した翌日12月14日から16日の3日間、残存兵を一掃する掃討戦が南京の城内、それと城外でも行われました。これが「南京戦」の経過です。
以上は、戦後になって偽造された写真などではなく、当時の第一級の資料や文献で十分に立証できることであり、この段階で「大虐殺」はなかったことが証明できます。
参考文献:『南京虐殺の検証―南京で本当は何が起こったのか』阿羅健一著/徳間書店
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南京戦に参加した祖父を持つ者です。
掃討戦にも参加した隊長クラスで、初入城をした部隊の一つでした。
南京には多くの難民(貧民)が残されていて、彼らの一部は塹壕に射殺されていました。
どうも中国の軍がやったという事らしく、塹壕の淵に並べて後ろから撃ったという話だったそうです。
日本軍は手前の丘陵湿地地帯での戦闘で大部分を損耗する状況で、戦力に乏しかったそうですが、難民を集めて市街中心部に進み、途中襲ってきたゲリラを掃討しましたが難民自体には手を出さず、炊き出しを与えると泣いて喜んだそうで、その姿は外国の従軍記者が写真に撮ったようだと話していました。
その後も市内でゲリラと散発的に交戦しましたが、戦闘と呼べるような規模ではなく掃討戦という程の事も無かったようです。
程なく後続部隊と交代して引き上げたそうですが、南京入城直後の様子としてはこんな具合でした。