産経新聞に掲載された水島治郎教授のポピュリズムについての考察を拝読した。
法学権威者の論に対して不遜であることを承知で書くならば、"そうなのか"と思う反面"ちょっと違うのでは"とも思った。教授は、ポピュリズムを「人民による反エリート運動」と解説されているが、どうも考察の基盤を共産主義に置いて、「ポピュリズム」を「階級闘争」に発展する1過程と捉えられているのではないだろうか。自分のような下層階級が抱く、"鬱積した不満""屈折した不平""漠然とした不安"等々は、アジテーターによって方向性を与えられない限りエリート(特権層)に向けられることはないと思うからである。自分は、ポピュリズムに最もふさわしい訳語は「付和雷同」であると思うし、その意味において国民の大半はポピュリズム(ポピュリスト)であると思う。そしてそれは付和雷同状態のポピュリストに攻撃先を指示するカリスマ性を持った指導者が現れ夢を語る時に爆発力を発揮する極めて危険な存在となる。また、指導者の説く夢が壮大であればあるほど爆発は大きくなるものと思う。教授はトランプ氏やルペン氏の出現をその典型としているが、歴史上最も巷間のポピュリストを糾合し得た人物はヒットラーであると思う。トランプ・ルペン氏は移民の排斥による雇用の創出や治安維持という目に見えるであろう利益を夢としたが、ヒットラーは"世界に冠たるドイツ""アーリア人の優越性"という夢想をかざしたからである。
幸いにして、日本には消費税凍結や最低所得補償程度の御利益しか提示し得ないポピュリズム指導者しか現れていないことは幸いであるが、在沖米軍基地移転の秘策という狗肉の策で一時の勝利を得たポピュリストがいたことを忘れないようにしなければならないと思う。