新元号に対する各政党のコメントが報じられたが、共産・社民両党のレトリックが興味深い。
共産党は志位委員長が「元号使用は国民の選択に委ねられるべきで、国による強制には反対する。『今、元号を廃止すべきだ』という立場には立っていない。将来、国民の総意で解決されるべきだ」と述べている。しかしながら、文面からは共産党が元号に対して持っている真意が読み取れないし、将来政権をとった場合にどうするのかが伝わってこない。諸問題に対しても、巧妙に真意を隠しつつ、「そこはかとない反意を示す」共産党のレトリックは秀逸であると思う。今回のコメントにしても、元号を廃止して暦年表記はどうするのかは示していないし、元号使用の強制には反対するとしていることも、元号廃止には元号法の改正または廃止という「法の強制」がなければ行政は成り立たないという矛盾を隠している。極論すれば、「元号は残す」、「暦年表記方法については強制しないので国民は好きな暦年(キリスト紀元、皇紀・元号、イスラム紀元)を使用する」、となり、公党トップの責任ある発言とは到底思われないが、身内の共産党員には十分に真意が伝わるコメントなのだろう。さらには共産党の機関紙である「赤旗」は、党員・党友以外の購読者を意識してか元号の併記は継続するともしており、レトリックのみならず行動自体も硬軟織り交ぜたものになっている。このように真意を掴ませないが反意をにじませる共産党に対して、社民党は又市党首が直截的に「元号法は非民主的」と断定しており、両党のレトリックの差異がそのまま党勢に反映していると観るのは思い過ごしだろうか。
日本の政党と世界の左派政権を比べると、社民党を思わせるフランス、共産党そのものの中国となるのではないだろうか。国民の権利や自由度の危険度は共産党(中国)の方がはるかに高いと考えられるにも拘らず、党勢は共産党に軍配が上がっている。ソフトなレトリックを以て衣の下の鎧を隠し無党派層を薬籠中に取り込んで党勢を維持・拡大する共産党に対して、真っ向勝負で牛車に向かうカマキリを演じる社民党、その差はレトリックの巧拙によるのではと感じる出来事であった。