もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

国民民主党とポピュリズムを考える

2019年04月27日 | 野党

 形の上では国民民主党が自由党を吸収する形で、新しい国民民主党が誕生した。

 船出に当たっては旧国民民主党の基本理念を引き継ぐとされているが、安全保障や原発政策等について両党には相当の隔たりがあることから、合併は「参院選をにらんでの野合」、「大同を捨てて小異についた愚挙」とも評され、野党の統廃合にみられる有権者不在の合併と称されても仕方のないものと思う。合併承認のための国民民主党の議員総会でも、議論の大半は参院選の候補者の選定であったとされている。自由党代表の小沢一郎氏が新党では無位無官の一兵卒であることも興味あるところである。旧民主党でも一兵卒を自称していたが、剛腕ぶりを発揮して党内党を作った挙句には自由党を結成した過去から見て、早晩、母屋を乗っ取るのではないだろうかと思っている。閑話休題。現在、世界中で「自国第一」を主張する政党が急伸しておりハンガリーでは政権を握っている。メディアでは自国第一の主張は十把一絡げにポピュリズムと呼んでいるが、選挙自体がポピュリズムの変形であることから、より多数の有権者の信任を得た勢力がポピュリズム勢力と呼ばれるべきで、移民排斥や保護貿易を推進してアメリカ第一を標榜するトランプ大統領はポピュリストの頂点であり、次いで強引に一帯一路を推進して漢族覇権を目指す習近平主席が挙げられるべきではないだろうか。日本の場合は選挙というポピュリズムに依って政権を担当している自民党がポピュリストと呼ばれるべきであろうが、自民党は外国人労働者受け入れや憲法改正を模索し、一方の立憲民主党は移民排斥、子育て・教育無償化のバラマキ福祉、憲法死守であり、諸外国、特にヨーロッパのポピュリズムとは趣を異にしているように感じられる。古代ローマで既得権益に縛られて機能不全に陥った元老院の旧弊を破るために、カエサル等が直接ローマ市民を動かしたことがポピュリズムの原点とされており、近世ではヒットラーを出現させたドイツもそう呼ばれるべきであると考える。王政・帝政時代にはエリート階層の独裁にブレーキをかけて市民の権利保護に有効であったポピュリズムも、選挙による間接民主制が主流である現在社会では変質しており、既に世界の多くの国がポピュリズムで成り立っているのではと考えるものである。 

 今回の国民民主党の看板架け替えは見事なまでに有権者無視の政争で、政策理念を共有したものでもなくポピュリズムに訴えるものでもない。いわば、旅行を計画したが団体割引に必要な人数が足りないために普段付き合いのない人を誘ったようなもので、旅行中(参院選)も何かといざこざが起こり、まして旅行が終わって(国会喝度)も付き合うことなど考えられないものであると思う。日本にも、有権者の真意を代弁できる真のポピュリズム政党が現れる時期に来ているのではないだろうか。とはいえ、反日というポピュリズムを国策で作為した韓国では、象牙の塔であるべき司法すらも公正さを失って、ポピュリズムを制御不能のモンスターに成長させてしまったことを考えれば、それはそれで困ったことになるとは思うが。