もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

アンジャッシュ問題に思う

2020年06月19日 | 芸能

 アンジャッシュの渡部建氏の話題が世情を賑わしている。

 渡部氏の行動の詳細は承知していないが、マスコミが総力を傾けて報道する程のことでもないだろうと思う。マスコミの指摘するところは、「会見をして顛末を明らかにして謝罪せよ」に尽きると思うが、顛末を明らかにすることで、社会に寄与できることがあるだろうかということと、いったい誰に対して謝罪を要求するのかが理解できない。彼の行動は法を犯したものでは無く、設計者が予測した多目的トイレの活用法以外の目的に使用したに過ぎない。また、謝罪とは、直接被害を与えた相手になされるべきもので、裏切ったとフアンに謝罪せよとする主張には根拠がないと思う。ファンは実像を知らずに各種媒体によって作られた虚像を応援(心酔)しているだけであることを思えば、謝罪すべきは虚像を作り出した媒体であるように思う。刑法は国家という集団を損なう「罪」を定めて、「罪」に対しては国家が処罰することを宣言したものと思う。昔から、罪とまではされなものの集団の円滑な運営を阻害する者に対しては「村八分」という懲罰を与えていた。それを文化大革命下の中国では犯罪や犯意の立証を必要としない「人民裁判」という形で行ったと考えている。刑法で裁かれない刑罰は「私刑(リンチ)」と呼ばれ、憲法31条では「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定し、厳に戒めているが、マスコミの主張する「会見」なるものの実態は、覗き見を満足させるための体のいい吊し上げで、執拗な報道と合わせれば私刑に他ならない。有史以来多くの宗教家や思想家が思索を重ねても、未だに絶対の真理は確立されていないとされ、桃源郷も出現していない。現在我々が真理と考えるのは、自分の住む国の風俗習慣の最大公約数であると考えれば、時代とともに真理が変質することは避けられない。真理に悖るとして渡部氏を糾弾しているマスコミは、単に時代の一瞬の真理を絶対の真理と思い込んでいるに他ならないように思う。

 大上段に振りかぶったが、渡部氏の顛末に戻れば、単に芸能界という狭い世界で起きたことであり、利害得失に関係するのは極めて少数であろう。TV画面や食べログ上の虚像と情報に踊った人々は、単に選択の対象を見誤ったにすぎず実害はないものと思う。また、かっては芸能レポータと呼ばれていた集団が、今では芸能ジャーナリストと名を変えていることにも違和感を感じる。職業そのものや呼び方に貴賤を付けるものでは無いが、この種の業種はやはり芸能レポーターの呼称が相応しく思える。