アメリカの失業保険給付が高すぎるとの議論がアメリカ国内で出ている。
問題視されているのは、中国コロナ対策として通常の失業保険に政府が週600ドルを上乗せするために低賃金労働者にとっては就業時よりも失業後の方が収入が高くなるために、職場が再開された後も職場に戻らないケースが増え、シカゴ大学の試算では追加給付受給者の68%がこうした状態から敢て失業を選択しているともされていることである。週600ドルという額は民主党の主張に沿って設定されたものであり、大統領選を考えれば共和党のトランプ政権も直ちに金額を是正することにためらいを見せている。代わって浮上したのが、職場に復帰(再就職)した場合には1200ドルのボーナスを支給する制度で、汚い表現であるが「泥棒に追い銭」で失業者の就業を促そうとする苦肉の策と思える。報酬は労働の対価として得られるという人間社会の鉄則が崩れた場合に就労意欲や生産性が上がらないことは、ソ連のコルホーズや中国の人民公社の例を見るまでもなく、日本でも、能力給導入前の公務員や、生活保護や障碍者福祉制度を悪用する人間の出現等でも見られる現象である。額に人一倍の汗することでアメリカン・ドリームを掴むことを最大の美徳としてきたアメリカ人も、一度甘い汁を吸えばこうなるのだろう。GoToキャンペーンから除外された都民からは「都民にも何らかの特典を」との声も聴かれる。持論に固執するようであるが、経済回復のために国費を投入するのであれば、飲食業に代表される第3次産業の労働人口が他の先進国よりも異常に高い産業構造を利用して活性化を図るよりも、第3次産業から他の業種に労働者を移動させる施策に国費を投入する方が、将来のために役立つのではないだろうか。官製標語であるかも知れないが、大東亜戦争に際しては「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に鍋釜まで供出して砲弾に変え、2002年の所信表明演説で小泉純一郎首相は郵政改革は「米百票」の精神で取り組むと述べた。現在進行形のコロナ対策・コロナ後の制度設計・制度改革ににも、瞑すべき心意気ではないだろうか。
「米百票」の逸話、北越戦争に敗れた長岡藩は領地を7万4000石から2万4000石に減らされて財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも困る惨状となった。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなった。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用とすることを決定する。藩士たちは反発して虎三郎に抗議するが、虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきったとされる。ケネディも大統領就任演説で「諸君に対して国家が何を為し得るかを説い給うな。諸君が国家に対して何を為し得るかを問い給え」と問いかけている。