もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

枝野幸男氏と新自由主義を学ぶ-2

2020年09月09日 | 野党

 昨日に引き続いて、枝野幸男氏の「新自由主義からの転換」について考えた。

 枝野氏の「新自由主義からの転換=大きな政府」構想で避けて通れないのは憲法改正ではないだろうか。中国コロナ騒動で行われた「マスクや消毒用アルコールの不当転売禁止」は、国民生活安定緊急措置法によって行われたと理解しているが、同法の憲法上の根拠が見当たらないように思える。生活保護や激甚災害救済の根拠とされる憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」に依っているように思うが、憲法25条は「国が与えなければならない義務」を示したもので、「国が私的財産や経済活動の自由を奪う権利」まで保証すると考えるのは無理があるように思える。また同法が憲法13条の「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」の規定から、転売を「公共の福祉」に反するとした結果であるかもしれないが、そこには憲法9条と自衛力の関連と同じく「憲法の解釈運用で解決する」という強引さがあるように思える。世の憲法学者や最高裁の違憲立法審査が何ら異を唱えない法律に対して素人が論うのはおこがましいとは思うものの、スッキリしない。戦後長らく公共料金という範疇で価格統制されてきた米麦、電力料金、鉄道運賃等は自由化され、統制(認可制度)されているのは、郵便、タクシー、タバコ、入浴料くらいと思っている。このように日本では、財政健全化と国民の利便性追求の両面から、価格統制という政府権限を縮小して小さな政府に移行してきた。そこには許認可制度から必然的に生まれる官民癒着や族議員を排除するという革新系野党の主張も大きく関係したように思う。枝野氏はこの流れから一転して、大きな政府に転舵しようという構想であるが、大きな政府を維持するためには大きな財源と統制力が必要であり、これまで野党が主張してきた岩盤規制の撤廃や公務員の増員反対とは相容れないようにも感じられる。日本の大きな政府が行う中国コロナ対策を想定すると、罰則を伴う都市封鎖、外出、商業活動等が罰則を伴って禁止される一方で休業補償は手厚くなるだろう。そうなれば、今回の定額一時金支給で議論が持ち上がった憲法の緊急条項に基づく法整備が不可欠となり、枝野新党が政権に就いたならば憲法改正の必要性は増加するように感じられる。

 定額給付金の支給時、憲法に緊急条項を設ける必要性が議論された際、枝野氏は「火事場泥棒的議論」として不快感を示したとされる。小さな政府であれ大きな政府であれ、憲法に緊急条項を規定することは必要であると思うが、枝野新党が政府権限をより強化した大きな政府を目指すならば、常識的にはその要求度は更に大きいのではないだろうか。一般的には高負担&高福祉が大きな政府の特色とされるが、消費減税や低所得者の所得税減免を行っても高福祉を目指すという枝野氏であれば、憲法を改正せずに政府権限を強化する妙手をお持ちなのかもしれないが、何の計画もなく在沖米軍基地を「最低でも県外」とした鳩山民主党の政権交代劇の再演のようにも考えられる。