もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

憲法改正に思う

2020年09月23日 | 憲法

憲法改正についてのご意見を賜った。

 最初の意見は、「緊急の事態が起きた場合には、憲法や法律がどうのこうのよりも、現実に即応した対処をやっていくのではないか」という意見ですが、憲法や法律に規定されていない行動を「誰が命じて」「誰が従事する」のかを考えれば、現実的でないことは明らかと考えます。
 「誰が命じて」について考えます。ダッカ事件でテロリストを「超法規的処置」で釈放したことがありましたが、国の命運を「指導者が採る超法規的処置」に委ね・期待することは極めて危険であると考えます。法治国家とは名ばかりの中国や北朝鮮のような独裁国家であれば許されるでしょうが、指導者にそれほどの大権を無条件で与えている国は世界に存在しないと思います。憲法とは「全ての事柄が憲法の範囲内で・憲法の手続きによって行われる」と内外に宣言するものと考えますので、武力行使の判断を超法規的に行うことは、国際的に「何をするか解らぬ無法国家」と看做され、国民も「有事の様相と対応」が想像できない不安定な状態に置かれるものと思います。我々は、大東亜戦争の教訓からシビリアンコントロールで軍人の暴走を抑止する概念を学び・実践してきましたが、武力行使(開戦)の大権を総理大臣の超法規的処置に与えることは、政治家の暴走に繋がる危険性を持つものと考えます。
 次に「誰が従事するのか」という問題ですが、出動させられる自衛官(国民です)も、憲法に記載されていない任務に赴き、記載されていない犠牲を強いられることになります。さらには、現行憲法の解釈として自衛隊は軍隊ではないという主張を持ち続けるならば、自衛官はジュネーブ条約で軍人に与えられている軍人捕虜に対する保護や戦闘による殺傷から免責されるという権利が受けられないことも予想されます。意見を寄せられた方の脳裏には、欧州戦線でのレジスタンスやベトコンのような抵抗を思い浮かべているかも知れませんが、それらと根本的に異なるのは、国内には武器が無く、武器の取り扱いに習熟した国民もいないことです。レジスタンスが機能したのは欧州全土に第一次大戦時の武器や生き残り軍人がいたからで、ベトコンは北ベトナムの全面支援を受けていたからです。このことから、自衛官以外の国民が武器を取って侵略者に立ち向かうことなどできない以上、その任を自衛隊に依存するしかなく、自衛隊を国軍として内外に宣言することが必要と考えます。
 以上の点から、「武力(軍隊)の保持」「武力の行使」は憲法に規定する必要があると考えます。

 次いで「憲法9条を変えるといずれは徴兵制が敷かれて、孫たちが戦場に連れて行かれ、20歳前後の、高校や大学で学んだり青春を謳歌する期間を兵役に変えるということはやり過ぎではないか」という意見も頂きました。
 これに対しては、「近代兵器を使いこなすには、少なくとも数か月間以上の教育が必要です。さらに現在の武力紛争の大半は急激に進行しており、相手は、日本が徴兵に関する法律を作り、適格者を選抜し、招集し、訓練する余裕など与えてくれないので、緊急時の徴兵自体は無意味です。憲法の改正と徴兵制は別の問題で、両者を結びつけるのは正しくないと考えます。自衛のための戦争もせずに、お孫さんがウイグル族のように中国語を強制され、教化のために収容所に収容されても良いとお考えであれば、全ての戦争を否定して戦力を放棄する道を選ばれることも自由であろうと考えますが、お孫さんが、侵略者と戦うか?侵略者に隷属するか?を選択できる道を残すことが我々世代の責任ではないでしょうか。なお、若者の道徳観や一体感喪失を懸念して、フランス・ドイツ・スゥ―デンでは、限られた人数を選抜して短期間団体生活させるが軍事教育は行わないという一種の徴兵制が復活しています。」とお返ししましたが、さらに付け加えるならば、憲法9条が改正されない場合であっても自衛官の慢性的な人員不足を補うために、補給部門や経理部門等の後方部門に徴兵制を導入し、それによって得た人員を正面兵力に転換する政策は議論される必要があると思います。核武装の議論にすら応じないという主張が平和主義とされていますが、核武装・徴兵制などについてもタブーを設けずに、全てのテーマで議論を行うことが議員・立法府の責任であろうとも考えます。
 また、「20歳前後の青春謳歌・・」については、20歳前後の隊員が災害派遣に、海賊対処に、教育訓練に・・・、黙々と励んでいる現状を忘れておられるのではないでしょうか。自衛官のみならず、警察官・海上保安官も同様に国の安全に寄与しています。彼等同世代の支えがあってこそ「青春の謳歌・・・」が成り立っている現実も考慮して頂きたいと願うところです。

 憲法9条以外にも形骸化しているものがあります。
 それは、高等学校の無償化と私学助成です。憲法26条には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と規定しています。無償とされる義務教育は教育基本法で、小・中学校と規定されているために高校教育を無償とするのは明らかに憲法違反だろうと考えます。高校教育を無償化する際には、高校進学率の高さから高校教育を義務教育と見做して無償化に踏み切りましたが、本来なら憲法を改正して「義務教育」の文言を削るか、教育基本法を改正して高等学校も義務教育と規定すべき案件です。さらには、高校教育無償化の延長として、大学までも無償化を要求する意見がありますが、憲法の拡大解釈が際限のないモンスターに成長することを示しているように感じます。大学への私学助成も同じことで、現行憲法の死守を標榜する方々は、最も憲法を踏みにじっている人とも云えるように感じます。

 以上、所信を書き連ねましたが、国家の基本は憲法であり、憲法に違反する制度が必要な事態になったら「憲法を改正」するか、「制度をあきらめるか」の白黒をはっきりさせることが法治国家として当然であろうと考えます。国防をどう考えるか、徴兵をどう考えるか、教育をどうするか、憲法はそのままに解釈を変更して国家を運営する悪弊は、我々世代で終止符を打つ必要があるように考えます。この状態が続くならば、イスラムの教義が解釈によっていつしかテロ容認・礼賛に変化したように、日本憲法教も為政者の都合に合わせて際限なく膨張・変化するのではないだろうかと案ずるところです。