一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

石巻市

2011-08-18 | 東日本大震災
女川町から石巻市に戻ります。
Googlemap参照)

石巻市に入って渡海駅の周辺あたりから津波の爪跡が見えはじめます。
私立女子高の手前には瓦礫の集積場がありました。



国道から漁港方面へ向かう道に入ると、漁業関連施設の建物が大きな被害に遭っていることがわかります。



全壊していない建物については解体するか補修するかの判断(資金繰り?)が所有者に任されているためか、被災した状態のままの建物が多く見られます。
このあたりでは未だに魚の腐敗臭がし、蝿も多く、片づけが進んでいないことが想像されます。


タンクも転がったまま。





卸売市場。再開はまだまだ先のようです。




市場周辺の建物はほぼ壊滅的な打撃を受けています。




石巻漁港の埠頭




埠頭から漁港をのぞむ。





旧北上川を渡って市街地や工業地帯の側に入ります。
こちらも大きな被害を受けています。

地盤沈下はここでも大きな問題。




海岸から500~600mの範囲では多くの建物が倒壊して、残っているのは鉄筋コンクリート造の建物だけです。
奥に見えるのは市立病院。




門脇小学校。
焼け焦げたような跡があります。
津波の後の火災によるものでしょうか。





被災した人たちの「がんばろう」という言葉を見ると、軽々に「がんばれ」という言葉をかけることには躊躇してしまいます。



自分は何ができるのか、すべきなのか。





日本製紙の工場。9月の再稼動に向けて復旧活動中です。




日本製紙工場への引込線。
手前に線路がかろうじて見えますが、地盤沈下と冠水は復旧の大きな妨げになりそうです。





8月1日は石巻川開き祭りでした。

多くの人が集まっていました。



こういう催しは今だからこそ重要だと思います。
「皆が心を一つにする」とよく言いますが、皆が同じ事を思う(同じ事を思う人が集まる)必要はなく、いろいろな思いを一つの催しをきっかけに持ち寄ることが大事だと思います。
「正しいこと」よりも「うれしいこと」が大事なんじゃないかということについては後日触れようと思います。


子供たちにとって、来年のお祭りをもっと楽しいものにするのは、われわれ大人たちの責任。







しかし、縁日の開かれている通りの一本裏では、川沿いに遡上した津波の爪跡が未だに残っています。












石巻市は宮城県第二の人口を擁する大きな市でそれだけに財政規模も大きいと思いますが、市の産業の軸である漁業と工業の双方が打撃を受け、しかも海岸沿いの市街地の被害も大きいため、復旧にはまだまだ時間がかかりそうです。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
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女川町・牡鹿半島

2011-08-17 | 東日本大震災
日曜については後で触れるとして(って一体半月前の話をいつまでやってるんだろう)、8月1日(月曜)は残りの行程。
6時に仙台を出て三陸自動車道に乗ったのですが、途中は渋滞でした。やはり鳴瀬奥松嶋の料金所がボトルネック。

石巻の被災の様子を横目に見ながら、まずは女川町へ。(Googleマップ参照)


途中、内海のようになっている万石浦沿いに走りますが、ここはまったく津波の被害がなかったようで、平穏な日常です。
ところが牡鹿半島の付け根を越えて女川湾側にはいったとたん、津波に流された光景がひろがります。
ここも、津波が遡上したか否かの「0-100」の世界です。



まず、小高い丘の上にある町立病院から市街地を眺めます。


女川町は、津波で転倒した鉄筋コンクリートのビルが数棟あるのが有名で、これらは記念物として保存が決まったそうです。



この町立病院は、港のすぐ近く、しかもかなりの高台にあります。




町民の避難場所になっていたくらいです。




しかし、津波は丘を越えて病院まで襲っています。
病院の1階部分17.4mまで津波の遡上が観測されたそうです。
ただ、病院の上階は大丈夫だったようで、避難所としての役割は果たせたようです。





さきほど上から見た転倒ビル。基礎杭ごと壊されています。
押し波の側に倒れているので、地震のダメージ(後述しますが牡鹿半島は揺れが大きかったのかもしれません)に津波が加わって転倒したのかもしれません。





別の転倒ビル。
鉄筋コンクリート造ですが2階建てなのでそれほど基礎が丈夫でなかったのかもしれません。





床壁天井という構造体だけが残った建物



不謹慎ですがル・コルビュジエが近代建築の五原則を確立したサヴォア邸を連想してしまいました。



津波の向きに正対していたので構造躯体はダメージを受けずに残されたのではないでしょうか。




港の破壊された堤防。地盤面も沈下しているのがわかります。



女川湾も湾口防波堤があったのですが、津波はそのはるか上を越えていったようです。
(釜石同様一定の減衰効果はあったと思いたいです。)



漁港。まだ全然片付いていません。





魚市場。こちらも復旧には程遠い感じです。
周辺の水産加工業者の建物もほぼ全滅でした。





港の奥のほうでは野焼きをしていました。
ダイオキシンの問題等があるので瓦礫や廃棄物は野焼きをしてはいけないはずですが、背に腹は変えられないということでしょうか。野焼きを見たのは被災地でもここだけなので、よほど切羽詰っているのかもしれません。
牡鹿半島の小さい漁港でも野焼きをしていました。





女川市の中心部を離れて牡鹿半島へ。
牡鹿半島は津波だけでなく地震の被害も大きかったのが特徴とのことで、尾根筋の道路はいまだに通行止めです。
海側の道もこのように崩れかけたところや完全に崩れてしまったところがいくつもあります。



南三陸町へのボランティア・ツアーの添乗員氏によると、牡鹿半島は本当に鹿が多いそうで、釣りのために夜車を走らせていると時々鹿に出くわすことがあるそうです。ぶつかると車の方が壊れるような大きいのがいるとか。
道の駅では鹿肉も売っていました。



折角なので女川原発まで足を伸ばしました。


もっともここから先は入れません。

女川原発は女川湾の湾口防波堤の外なので津波の直撃を受けているはずですが、よく無事だったものです。



もう少し先にある女川原子力PRセンター
ここは当然のことながら休館中。





帰り道の看板



そちらこそ安全運転よろしくお願いします。



JR石巻線は現在も石巻-女川間は不通で代行バスが頼りです。
女川町の中心部もまだ片付けが終わっていない状態なので、牡鹿半島沿いにある集落はさらに復旧に時間がかかりそうです。
現時点では道路などのインフラ復旧のためにダンプが頻繁に行き来しているという状態でした。


※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
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南三陸町

2011-08-16 | 東日本大震災
南三陸町も津波の被害が甚大だったところのひとつです。
南三陸町は元は歌津町と志津川町が「平成の大合併」により誕生した町ですが、町役場などの中心部は旧志津川町にあります。(Googleマップ参照)

国道45号線を下ってくると、中心部に入るはるか前の気仙沼線を越えたあたりから津波の爪跡が残っていることに驚きます。


港の堤防
津波の威力と共にかなり地盤沈下していることがわかります。





港周辺
右に見える水門しか残っていません。





港から市街地側をのぞむ



平地部分の建物は大半が津波に流されてしまったようです。一部の鉄筋コンクリートの建物を除けば解体が進んでいるようですが、基礎周り外向部分はまだ片付いていません。
大船渡、陸前高田や気仙沼に比べると、心なしか重機の数が少ない感じもします。


志津川病院
4階まで津波の跡があります。
5階建ての増築部と屋上に避難した人だけが助かったそうです。





南三陸町防災庁舎
職員の女性が最後まで防災放送で避難を呼びかけていたところです。
津波は庁舎の屋上を越えていったそうです。



南三陸町のwebsiteにある防災庁舎屋上からの写真は息を呑みます。



市街地から南に3kmほど行った戸倉地区。
周辺部はまだ手が回っていないところが多いようです。





2日目はここから北上川の河口(落橋した北上大橋は工事中のため近づけず)経由で一関で東北自動車道に乗り盛岡までレンタカーを返却に行き(予約がいっぱいだったので乗り捨てができなかった)、新幹線で仙台まで戻って仙台泊。
ちなみに、軽自動車は高速を飛ばすよりより一般道を流す方が燃費がいいみたいです。

東北自動車道は被災者の無料通行が有人ゲートを通る必要があるために出口のかなり手前から渋滞してました。
この措置は8月いっぱいで終了ということですが、ETCカードを使ってもう少し効率的な方法もできたのではなかったかと思います。



そして翌日土曜日は仙台から日帰りの南三陸町へのボランティアツアーに参加しました。

仙台駅を7時に出発するツアーですが、バスは満員。仙台の人は一人だけで、あとは首都圏などの人たちです。
東京からのツアーは夜行バスなのできついと思うのは僕だけではないようですが、仙台市内のホテルは予約が取りづらくなっています。

三陸自動車道は朝早くから渋滞していました。
この道は東松島市、石巻市、女川町など被害の大きかった町に向かう主要道なので、支援に向かう車が集中するようです(それに無料通行証チェックのための渋滞もあります)。



南三陸町のボランティアセンターは、市の仮庁舎などがある丘の上のスポーツ交流村にあります。





ここの体育館は避難所になっています。





同じ丘の上には町の商工団地があり、水産加工業者などの工場が被災を逃れて残っています。
また、コンビニや銀行なども仮設店舗を建てていて、ここが復旧の拠点になっています。





ボランティアツアーのバスは自分たちのを含めて5台。遠く和歌山県からも来ていました。
また、個人単位で自家用車で来る人もけっこういます。
そして、空き地にテントを張って長期滞在している人も10名以上いるようです。
ヤマト運輸は自分でマイクロバスを仕立てて20人くらいのチームで来てました。




ここで奇遇が。
ボランティア・コーディネーター(班に分けて割り振りをする人)とツアーの人が知り合い。
しかも両方とも鹿児島から来た人。
ツアーの参加者は鹿児島の建設業の人数名で、水曜から被災地を視察し、土曜はボランティア、そして日曜は千葉県浦安市で液状化の視察という盛りだくさんの業界視察団。一方のコーディネーター氏(水色のTシャツ)は鹿児島で建設業に勤めていたのを震災を契機に辞めて、3月からずっと南三陸町でボランティア・コーディネーターをやっているそうです。
同業だけ合ってよく飲む機会もあったそうでお互いに「何でここにいるんだ?(in 鹿児島弁)」と盛り上がってました。





今回は建物が流された跡の細かい瓦礫などの整理。
建物自体は20mほど流されてしまい、大きなものは重機で撤去が終わっているのですが、屋根瓦、ガラス、建材の破片や残っている食器などの家財道具を分別して整理します。
多分、そこまで終えれば、持ち主が(資金のめどが立てば)立て直すなり整地するなりが可能になるということだと思います。

ボラセンのリーダーが1名ついて、その人の指示で動きますが、細かい役割分担を決めなくても、自然と分担ができてきます。
ちなみに旅行会社の添乗員の人も参加します。
スコップなどはボラセンが用意してくれるので、長靴(踏み抜き防止のソール入り)と手袋(軍手でなくガラスなどに強いもの)を持ってくれば大丈夫です。
あと、破傷風の予防接種も忘れずに。


昼休み。
雨よけ・日よけのテントもボラセンで用意していただきました。
当日は雨だったのですが、ピーカンよりは暑さと日射がないだけずいぶん楽だそうです。




ちょうど僕のやっていたところが居間にあたったらしく、沖縄土産のシーサーを1匹見つけたので対もいるはずと探したら、2組見つけることができました。





添乗員氏は釣りが好きでよく南三陸町にも来ていたそうです。
牡蠣やアワビのとれる豊かな港だった、ここに何のお店があって・・・という話を聞くと、改めて津波の奪っていったものの大きさを感じます。

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気仙沼~南三陸町

2011-08-15 | 東日本大震災
気仙沼から南三陸町までの国道45号線(Googleマップ参照)は大きな橋が落橋しています。
ただ道路は仮設の架橋がされたり迂回路が整備されたりと復旧していました。
気仙沼線は高架橋が至る所で流されていて当分復旧の目処が立たないなかで、海岸沿いの集落を孤立させないために、優先順位高く進められたのだと思います。



気仙沼線の陸前小泉駅と高架橋。
右手前の盛り土の上の瓦礫が駅舎の跡です




気仙沼線の高架橋は国道45号線の小泉大橋の上をまたいで作られていましたが、その橋げたまで流されています。




橋げたの上に民家が。
ということは、引き波がこの高さまできていたことになります。




その下を通る国道45号線の小泉大橋は仮設の架橋で復旧していました。





国道45号線の歌津大橋(ここから南三陸町にはいります)
これは落橋したままで、迂回路になっています。





気仙沼線清水浜駅
高架橋が落橋しています。




橋げたが落ちてせき止めたためか、土砂と瓦礫がうずたかく積みあがっていて、引き波の勢いを物語っています。




このように海岸沿いの集落と漁港がそれぞれ壊滅的な被害を受けていてしかも道路も寸断されていたので、行政の対応も手が回りきらなかったところがかなりあったと思います。

道路が復旧して孤立集落の存在は回避されたのでしょうが、まだ丘の上で侵入路が崩れて自宅が孤立している家も見かけました。また、避難所も分散しているのでしょうから、物資を円滑に届けるだけでもかなりの大変さだと思います。



北から順に見てくると、素人の感想ですが、岩手県より宮城県の方が復旧が遅れている印象を受けました。

その理由として、岩手県はリアス式海岸で崖が迫っているのに対し、宮城県は比較的海岸部にも平坦地が多いというのがあるのではないかと思いました。

そのため岩手県では国道45号線が海岸沿いギリギリを走っているところが少なく集落には道路が枝分かれしているため、国道の分断が少なかったのではないでしょうか。
海沿いの国道45号線が分断されてしまうと北上高地の方まで経由していかなければならず、物資の輸送に苦労したことが想像できます。

また、海沿いの集落も岩手県のほうが平地が少ないために集落も坂の途中や丘の上に作られているところが多いように思います。
一方で宮城県は川の河口の三角州のような比較的平坦なところが多く、そこに集落・漁港がたくさんあるように感じました。

ちなみに漁港の数を比較しても、岩手県の111に対し宮城県は142となっています。(Wikipedia「日本の漁港」参照)
そのため、宮城県の方が多くの箇所に救援・支援・復旧の手を割かざるを得ないのではないでしょうか。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。

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気仙沼市

2011-08-14 | 東日本大震災
つぎは気仙沼市。ここから宮城県です。
震災当日市街地で大規模な火災が起きていたのがヘリから中継されていたのが記憶に残っています。
Googleマップ参照)


ここも山側を走っている国道45号線沿いは普通と変わりませんが、市街地に下りていくと平地部が広範に批正しています。


市街地に入ろうとすると、火災のあった市街地はまだ交通止めになっていました。




市の中心部の港。フェリーの臨時発着所になっていました。
看板がゆがんでいるのは、この高さまで津波が来たか(周辺の建物の様子からはそこまでは高くなさそうな感じもします)漂流物がぶつかったのでしょうか。





男山本店



これは古い建物なので地震で座屈したのか、地震+津波のあわせ技かもしれません。
幸い酒蔵は津波を免れたそうです。(参照



フェリー臨時発着所から西側の市街地。
こんなところまで漁船が打ち上げられています。



漁船は直せばまだ使えそうなので持ち主との関係でまだ放置しているのでしょうか?



同じところから市街地方向。
少なくとも1階は軒並み津波でやられています。





観光客用の「お魚いちば」は営業を再開していました。





こちらは魚市場
建物は新しく、丈夫に作られていたためか、ほとんど無傷です。
しかしトラックは2台しかとまっていませんでした。






というのは、魚市場から南側が壊滅的な打撃をうけていたからだというのが先に行くとわかってきます。



魚市場の南端の駐車場から市場方面。



実はきれいに残っていたのは市場の建物だけでした。



眼を南に転じると、港湾施設が地盤沈下した上に津波をもろに受けています。





西側の水産関係の会社が集積していたであろうところ。
建物の被害も大きい上に、地盤沈下によりいまだに水に浸かっています。




頑丈な冷蔵庫も全体が道路面より沈下しているので、下水道など道路にあるインフラの取り合いが心配です。





更に南にいくと、道路が通行止めになっています。
ここから先は運河のようになっていますが、元は道路が通っていて、フェリー埠頭や市の合同庁舎(左側の建物がそれ?)があったところです。
特に大潮のときだったので、復旧や片付け以前に、立ち入ること自体が危険な感じでした。





同じ場所から内陸側。
南にいくほど建物の被害が甚大になっていることがわかります。





気仙沼は漁業・水産業が主力で集積が進んでいただけに被害も集中していて、建物や瓦礫の撤去、道路の復旧も半ばという感じでした。
さらに、火災が広がった北部の市街地の復旧もしなければならず、全体的に手が回っていないという感じで、まだまだ相当時間がかかりそうです。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。

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陸前高田市

2011-08-13 | 東日本大震災
大田団地からはすぐ陸前高田市に入ります。
Googleマップ参照)

陸前高田市は市の中心部の被害が有名ですが、ちょうど大田団地の側の外海からも津波が押し寄せて両方の湾をつなぐ低い部分に津波が遡上し、半島(地図で言うと仁田山、大森山があるところ)が分断されるような形になりました。



陸前高田市に入ったすぐの小友中学校からの景色
見渡す限りの田んぼに瓦礫が打ち上げられています。



ちなみにこの小友中学校は支援に来ている山口県警の拠点になっていました。
被災地を回ると、各市町村ごとにそれぞれの県警が応援に来ているようで、大槌町は京都府警、大船渡市は大阪府警が来ていました。



県道からはるか陸前高田側の海を望む


こんなところまで船や自動車が打ち上げられています。



陸前高田市の中心部はは平地の部分が広かっただけに広範囲に打撃を受けています。
建物の撤去が進んでいる分、荒涼とした景色が広がっています。


道の駅。この先に高田松原が広がっていたそうですが・・・




道の駅から南西側



陸前高田の市街地は瓦礫の撤去・分別集積が比較的進んでいます。



道の駅から市街地方向をのぞむ
再利用可能な?鉄筋コンクリート造の建物以外はきれいに片付けられています。





海から陸前高田駅の間は以前は田んぼが広がっていたようですが、地盤沈下して冠水したままになっています。





整然と積み重ねられた瓦礫。そのボリュームがわかります。
でも、この山は小さい方です。





気仙大橋(陸前高田市ですが川が気仙川なのでそういうネーミングのようです)。
落橋したのですが仮設の橋が既にかけられていて、ダンプなどが頻繁に通行していました。



おそらく自衛隊によるのではないかと思うのですが、このへんの技術とスピードは立派なものだと思います。
特に河口の橋が落橋してしまうと、沿岸部の集落への交通ルートが遮断されてしまうので復旧は優先順位が高かったものと思われます。


陸前高田は平地部が多いので、津波からの避難は大変だったと思います。
避難所になった第一中学校は丘の上のかなり高いところにあるのですが、市の中心部からそこにたどり着くまでに1km以上あります。
しかも丘のふもとにある酔仙酒造は壊滅的な被害を受けている(よくテレビなどで取り上げられてました)ので、丘の上まで登り切らないと津波から逃れることはできなかったことになります。
避難の初動の重要性を実感します。



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大船渡市末崎町大田団地

2011-08-13 | 東日本大震災
大船渡から陸前高田に向かいます。
三陸道を使わずに海沿いの道を走ると、宮城県との県境に近いところ、大船渡市末崎町に大田団地という昭和40~50年代に分譲された住宅地があります。
Googleマップ参照)

末崎町は外海に面している門之浜湾にあるため、大船渡湾の湾口防波堤の恩恵を受けることなく、直接被害に遭いました。

団地の内部はこんな感じで、まだ残った建物や外構の解体も終わっていません。
一戸建ての住宅地として作っているため細い道路が入り組んでいるので、地震直後に避難しないと津波が来てからでは間に合わなかったのではないでしょうか。




さらに印象的だったのが、その後に出来たと思われる斜面の高いところの住宅地がまったく無傷だったことです。

これは団地への進入路のところで撮った写真なのですが、この場所から坂の上は無傷の戸建住宅が整然と並んでいて、全く普通の日常生活を送っていることが印象的でした。
その普通の住宅地を抜けるて司会が開けた先に、津波被害に遭って瓦礫と化した団地が広がっているその落差に唖然とします。





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大船渡市

2011-08-12 | 東日本大震災
次の日は昨日の帰り道を戻って大船渡へ。
Googleマップ参照)

前日に三陸道のインターを降りたあたりで給油をしたのですが、郊外は通常の生活をしていました。
ロードサイドのコメリやケーズデンキだけでなくパチンコ屋の駐車場にもけっこう車がとまっていたのが印象的でした。

県道230号線を市街地に入っても、盛駅のあたりまでは津波の痕を感じません。

ところが県道が大船渡線を超えたあたりから急に建物がなくなります。


この建物がちょうど境目。
写真は南側から盛駅のほうを向いているので、この奥に無傷な地域が広がっています。
実際は盛駅周辺まで浸水したようですが、あまり大きな被害はなさそうでした。




反対側はこう



この方向(県道の東側)は工場地帯なのですが、建物が解体され整地されているところと、瓦礫の集積所になっているところ。
写真の手前部分を見ると建物の基礎(杭は別でしょうが)まできれいになっているのが他の町と比べて印象的です。


周りを見渡すともちろん片付け中の建物もありますが




既に復旧した建物もあります。




大船渡市で印象的だったのが、瓦礫撤去などの工事が整然と行なわれていること。



交差点には誘導員がいて、一般車両や工事車両を誘導しています。


さらにこれ



ホコリが舞わないように散水車が水をまいていたのも大船渡だけでした。
画面中央は重機が青い機械に鉄くずを入れると、青い機械がそれをプレスして立方体の塊にしているところ。
白いバンの後ろに立方体になった鉄くずが積み上げられています。



ゲートは津波で壊されてしまいましたが埠頭もきれいに片付いています。





岸壁から陸側をのぞむ

http://blogimg.goo.n



ところが市街地の方は景色が一変します。



被害に遭った建物や瓦礫が放置されたままです。



さらに南(湾方向)に行くとさらに被害が大きくなっています。




大船渡駅前。以前は画面中央に駅舎があったようですが、今はホームしか残っていません。





魚市場はさらに南にありますが、こちらは再開しています。





大船渡には太平洋セメントの大きな工場があり、被災しているにもかかわらず復旧しながら操業していました。




セメントを焼く炉は高温で金属以外のがれきを焼却する能力が高いため、被災して停止した3つの炉のうちの一つを早い段階で復旧させ、瓦礫の焼却をおこなっていたそうです。
この試みはさらに次のステップに進んでいるようです。
東日本大震災:津波がれき、セメントに 太平洋セメント、大船渡に脱塩施設



大船渡市は産業の復旧に優先順位をおいているように見えます。
住宅が被災した住民には避難所や仮設住宅で手当てをして限られた予算を重点配分することは大事だと思います。

ただこれは比較的被害の少なかった後背地があって、しかも財政的・人員的に大きな「市」であるから出来ることかもしれません。
大船渡湾にも湾口防波堤があり、これが一定程度被害の減少に役立ったということもあるでしょう。
さらに太平洋セメントのような大企業の工場が復旧して稼動している=従業員の生活が維持されていることも大きいと思います。


ただ残念ながら、今回まわった町の中では(被害が比較的軽かった宮古・塩竃を除くと)この大船渡が一番復旧(片付け)が進んでいる印象をうけました。
この状態がいちばんまし、という程度にしか復旧が進んでいないというのが現実です。




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大船渡市三陸町吉浜地区

2011-08-11 | 東日本大震災
さらに南下して大船渡市に入り、吉浜町という小さな町三陸町吉浜地区を訪れました。
Googleマップ参照)

震災とは関係ないのですが、水産業関係の人の話では、吉浜町産の「吉浜(キッピン)の乾鮑」は中華の高級食材で有名だそうです。
なにしろ江戸時代から中国に輸出されていたのですが、今でもほんどは商社を通して中国に輸出されているので国内では知られていないとのことです。もっとも卸値でキロあたり10万円ということなので、国内に出回ったとしても味わうことはできなさそうです。
(詳細は吉浜漁業協同組合のサイト大船渡市のサイトWikipedia参照)


しかしここを訪れた目的はあわびではありません。
吉浜地区は昭和8年の震災後集落を高台(海抜約20m)に移転した結果、今回の津波で人的被害が港を見に海岸に行って被災した1名にとどまったからです。
漁師の人達は沖に逃れるか陸に逃れるかして難を避けたようです。
「沖へ」「陸へ」漁師の生死分けた一瞬の判断 大船渡(朝日新聞)

もちろん防潮堤や防風林は大きな被害を受け、以前の居住地域である海岸背後地を開墾した農地も冠水してしまいましたが、人的被害がなかったことは復旧には大きなアドバンテージになるでしょう。



港から低地に広がる農地。




上の写真の右奥に写っている高台の集落をクローズアップ





さらに近づくとこんな感じで擁壁に守られていて見たところ津波被害はまったくなさそうでした。





普代村同様、人間の知恵と努力が効果を挙げた例で、こういうのを見ると勇気付けられます。



日没が近くなってきたのでここで初日は終わり。
沿岸部には宿泊施設がないので、北上市まで2時間かけて戻りました。



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釜石市

2011-08-10 | 東日本大震災
大槌町から10kmほど南に下ると釜石市になります。
(Googleマップ参照)

ここも市街地はかなりの被害を受けています。


魚市場周辺
道路事態が沈下により冠水していて、迂回が必要です。
魚市場の建物の被害も大きい。





岸壁に乗り上げた貨物船。
船主と保険会社の話がまとまっていないのか、まだ放置されたままです。





貨物船の脇から港内をのぞむ。
向こう岸の工場(ドック?)の建屋が傾いています。
水位の高さにも注目。
大潮とはいえ元の岸壁の高さはもっとあったはず。





市場近くの高台から。
津波は2階レベルくらいの高さだったので、小高いところは被害を免れています。
しかし、被災した建物の解体撤去、瓦礫処理はあまり進んでいない感じです。





同じ場所から市街地側
こちらも建物はけっこう残っています。
構造躯体は残っているのと、3階以上は被害がなかったところが多いので、補修して再利用する予定なのかもしれません。





でも、このような建物もあります。
建物が残っている状態なので、瓦礫を整理するという段階作業には至っていないようです。





市の中心部のガソリンスタンド



周囲の建物に比べてなぜか被害が大きい。



港の近くの工場。
真ん中に写っている小さいユンボが一生懸命瓦礫の片づけをしていましたが、しばらく時間がかかりそうです。





コンビニは営業中。
訪れたのは夕方だったのですが、通りで唯一灯りがともって営業していたのがコンビニでした。



釜石だけでなく、被災地のほとんどすべての町で、コンビニは貴重な日用品の供給元になっていました。

高台の国道沿いで被災を免れたところもそうですが、被災した建物を仮復旧させたり仮設店舗を作って地域の人のために役立っている姿はCSRなどという理屈は抜きの商人としての根性を感じます。
(おにぎりを買ったら何も言わずに紙ナプキンをつけてくれた宮古のコンビニの店員さん、ありがとうございました。)

ところで、岩手県内はほとんどがローソンだったのですが、宮城県にはいるとセブンイレブンが過半になってきます。
営業の重点のかけかたの問題か、商品の配送ルートの関係なのでしょうか。



養老乃滝もがんばってます。





新日鉄の工場は操業を再開していました。




釜石といえば1,200億円の巨費をかけて2009年に完成したばかりの湾口防波堤が津波の威力で破壊されてしまった空撮映像が印象的です。

(元の姿)




(津波の後)





実際に地上から見ることはできなかったのですが、破壊されたとはいえこの防波堤は今回の津波想定高さの13mが7~9mまで減衰したと推定されているそうです。
(日経コンストラクション編「インフラ被害の全貌 (東日本大震災の教訓 土木編)」による。ちなみにこの本は津波が堤防・橋・道路等に被害を与えるメカニズムや被災状況の分析が充実していて非常に役に立ちました。釜石の防波堤が破壊されたメカニズムの分析も興味深いです。)



全般的な印象では、港近くの被害は大きいものの津波は(湾口防波堤のおかげで)2階レベルの高さにとどまっており、高台の住宅は無傷であるなど被災範囲は比較的限定されています。
ただその割りにあまり建物解体、瓦礫撤去が進んでいない印象を持ちました。
大槌町と比べた釜石市の財政規模を考えると特にそうです。

ただ、あとで地図を見返してみると、今回は釜石駅から国道・川沿いに広がっている市街地を見ていないので、実はそちらの方の被害も甚大で手が回っていないとか、住宅地の復旧を優先して工場や商業地はまずは自助努力にゆだねているのかもしれません。



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大槌町

2011-08-09 | 東日本大震災
宮古魚市場で写真を撮っていると、同じように写真を撮っていた人に声をかけられました。
その人は県の仕事で、各町の復旧状況を確認するために写真を撮るという仕事をしているということでした。
その人の話では岩手県の中では大槌町が一番復旧が遅れているということだったので、覚悟をして町に入りました。(Googleマップ参照)


国道から市街地に降りる側道に入ります。



この時点では既に津波被害や瓦礫については感覚が麻痺しつつあるのでそれほど驚きません。

まずは漁港のほうに向かいます。




構築物の被害が津波の大きさを物語っています。




港に近づくにつれ、魚の腐臭が強烈に漂います。
水産加工業者の冷蔵倉庫の在庫などが腐敗したのだと思いますが、実はこのあとどこに行っても、ほとんど腐臭はありませんでした。
それだけ建物の解体、撤去が進んでいないことになります。

堤防を利用して瓦礫が眼一杯積みあげられています。




魚市場



復旧には程遠い感じです。


Uターンして、今来た道のほうを眺めます。


地盤沈下して、道路面より宅盤がかなり下がっていることがわかります。
これはどこの町でも共通で、港や建物の復旧に大きな障害になりそうです。


ちょうど大潮にあたっていたのですが、地盤沈下のため港から浸水してきています。
普通は堤防はなくても大潮の満潮時よりは高いところに岸壁は作っているはずです。





市内を流れる大槌川にかかる橋



こちらは欄干が曲がっているものの橋は無事だったのですが、50mほど下流にある山田線の橋は橋げたごと流されています。




橋のたもとから西側市街地方向




北側市街地方向


鉄筋コンクリート造の建物の解体はまだ終わっていない感じです。


橋の近くの空き地に集められた自販機。



まとめてベンダーに処理してもらおうと集めたのでしょうか。
瓦礫にしても、燃える木材と不燃物もコンクリ、金属、自動車などに分別しないと処理もできないのが手間のかかるところです。


コンビニ




市の中心部



このあたりに町役場があり、役場ごと流された上に町長も被災して亡くなったそうです。
もともと行政単位が「町」なので予算も職員の人数も少ないことも復旧が遅れている原因ではないでしょうか。

城山公園から市街地をのぞむ。



市街地が平坦な部分に展開し、そこがのほとんど全てが津波の被害にあっています。
なので、再建の梃子になるものを見つけるのが難しいのかもしれません。

遠くに見える狭い湾口から町を流してしまうほどの津波が押し寄せてきた時の様子をかんがえると怖ろしくなります。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
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宮古市中心部

2011-08-08 | 東日本大震災
田老町の被害を目の当たりにしたあと宮古市の中心部にはいると、被害の程度の差に驚きます。(Googleマップ参照)

宮古港は入り口に閉伊崎があり、防波堤の役割を果たしたのかもしれません。
それでも港周辺はかなりの被害がありますが、駅や市街地は浸水はあったようですが、日常を取り戻しているように見えました。


宮古漁港。
やはり港は被害を受けている。
後背地の水産加工会社があったらしき周辺は被害にあった建物が撤去されているが漁港の建屋自体は一部損壊で片づけが行なわれていました。






平成7年にできた宮古市の魚市場はほとんどダメージがなかったらしく、トラックが出入りして普通に営業を行なっているように見えました。



宮古市魚市場の詳細については公式サイト参照



港から河口付近は大きな被害を受けた建物も見られます。


ガソリンスタンドの看板が折れ曲がっていることに注目



ただ、市街地では地震の被害が大きく解体した建物の跡地と思われるものはありましたが、おおむね普通の日常を取り戻しているようでした。





海水に浸かって枯れてしまった道路の植栽を撤去している人々。
そこまで手が回るということは、比較的復旧が進んでいる証拠のように感じました。




ちなみに、ラサ工業の巨大煙突(参照)は無事でした。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
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宮古市田老町

2011-08-08 | 東日本大震災
つぎは宮古市田老町(Googleマップ参照)

吉村昭の『三陸海岸大津波』でも取り上げられていたように、明治29年、昭和8年の津波でも大きな被害があった町で、その教訓から、高さ10.6m総延長2.4kmの巨大な防潮堤を設置していた町です。

しかし今回の津波はその防潮堤を越えて町に壊滅的な打撃を与えました。



港の近くの崖に過去2回の大津波の到達点を示したプレートが取り付けられていますが、今回の津波はそれらのプレートを壊してその上まで到達したことが伺えます。



下のプレートが昭和8年の10m、上が15mと書いてあります。



国道を通ると市街地への入り口には昭和8年の津波の遡上地点を示す標識があります。
(この写真は市街地側から撮ったもの)
今回の被害はそれよりはるかに陸側まで広がっています。





これが防潮堤。陸側からの写真ですが、津波に乗り越えられて手摺が曲がっています。





防潮堤の上から。
左が海側で右が陸側ですが、ともに建物が撤去されてなにもない状態です。





港。瓦礫撤去はほぼ終わってますが、鉄骨類の分別集積をやっているところです。





港から市街地を見る。

手前の防波堤は完全に破壊されています。
建物も残っておらず、奥に見えるたろう観光ホテルくらいです。(地図を見ていただくとそこまでけっこう距離があることがわかると思います。)





漁港にある冷蔵倉庫。写真で見ると冷蔵倉庫の裏の崖に過去2回の大津波の到達点を示したプレートがあります。





たろう観光ホテル。この場所で3階の高さまですごい勢いで津波が襲ったことがわかります。





おまけですが、携帯電話の基地局(ドコモ?)

かなり海に近い場所にあるのですが、基礎がしっかりしていてしかも地上部が細かったので押し波引き波による被害を逃れたようです。(根元のところに何かがぶつかった跡があります。)





防潮堤は津波を完全に防ぐことはできませんでしたが、防潮堤がどれだけ津波の被害を減少させることができたのかを検証して、今後の防災対策に生かしてほしいものです。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
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田野畑村、宮古市小堀内漁港

2011-08-07 | 東日本大震災
普代村から南下します。

隣村の田野畑村には、上に列車を載せたかわいい水門があります。
二年前に三陸海岸を列車で南下したときにみつけたものです。
Googleマップ参照

 ※そのときのエントリはこちら
      岩手三陸フリーきっぷの旅(その1)
      岩手三陸フリーきっぷの旅(その2)
      岩手三陸フリーきっぷの旅(その3)

二年前の写真




現状



昔の姿を知っていると、被害の大きさをより実感します。


このあたりで気がつき始めたのが、地震の揺れによる被害と違って、津波は遡上した範囲はことごとく大きな被害を与えるのに対し、津波が及ばなかったところはまったく無傷だということ。

たとえば田野畑村も斜面沿いに住宅が立ち並んでいますが、津波が及んだところは建物が全滅(または解体が必要なくらいの被害)したにもかかわらず、津波が届かなかったところは無傷で残っています。



この「0か100か」という違いが、被害にあう人や町は全てを奪われてしまう、復旧するにもとっかかり自体がない、というのが被災からの復旧を難しくしている一因だと思います。


つぎに宮古市に入ります。
市の北に小堀内漁港という小さな漁港があります。
Googleマップ参照

ここは津波が37.9mと今回の津波でも有数の高さにまで遡上したところだそうです。

切り立ったリアス式海岸の間を縫って道を下っていく途中から、陸に上がった津波が斜面によって狭められて急激にたかくなったであろうことが想像されます。


走っていると、いきなり道がなくなります。



霧が出ていたせいもあってかなり怖いです。

路肩が崩れた道を下っていきます。


セメントの擁壁が壊されています。




ここが行き止まり。
漁港があったところですが、今は何もありません。




陸のほうを見ると津波の威力がわかります。




借りた車ーが写ってますが、かわいい路線のデザインの軽自動車が異常に不釣合いです。



小堀内漁港に下る手前の丘の上(はるか高いところ)にグリーンピアというリゾート施設があります。
ここは今仮設住宅が設置されています。

ただ、場所的にはリゾート施設があったところだけに買い物などはかなり不便そうです。



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。


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岩手県普代村

2011-08-07 | 東日本大震災
先週東日本大震災の被災地をぐるっと巡ってきました。

被災地は南北に相当範囲が広いうえに、まだ現地の宿泊施設が整っていないので、内陸部に泊まりながらレンタカー移動でした。

現地に行った友人・知人の話を聞いたり道路の通行制限状況を調べたりその他情報収集をするなどで準備にけっこう時間をかけると、だんだん見に行く範囲が広がってしまって、結局上のまとめエントリにあるような盛りだくさんなものになりました。

それだけ、道路については沿岸部で片側交互通行や迂回路、架設の橋はあるものの、機能的にはほぼ復旧しているといえます。


会社から夕方怪しげな旅装束で出てそのまま新幹線に乗り盛岡に入り、翌朝レンタカーを借りて出発。

八戸道経由で久慈に出て、そこから海岸線を南下しました。

久慈市内は港周辺に被害が集中していますが、市街地は日常生活を取り戻している感じでした。

国道を下っていくと、海に近い開けたところに出ると、いきなり津波の跡の瓦礫の山や枯れた松林などが眼に入り驚きますが、これが数百キロにわたり続くことになります。

最初の目的地は
普代村。(Googleマップ参照)

港湾土木の友人によれば、ここの水門は津波に2m超されたものの機能を維持し、中心部の浸水を防いだそうです。

村の中心部から海方面にしばらく下っていくと水門が見えます。





かなり立派なものですが、同様の構築物が破壊されている状況もこれから何度も見ることになります。

水門の上から山(集落)側



水門の内側の通路のようなものは壊れていますが、上流の林が枯れていないので、津波の遡上もそれほど大規模ではなかったようです。集落はかなり上流にあり、津波被害は見られなかったので普代村のハザードマップで想定されたほどの被害はなかったようです。


海側



海側は(何かあったとしても)全て流されています。

水門の脇を見ると、水門より高いところまで津波が来たことがわかります。
(関係者には有名なのか、視察に来ていた人が端っこに写っています。)





このように津波を防ぐことのできた施設もあったということはちゃんと評価したほうがいいと思います。
やはり堤防などの高さの絶対値が大事なのか、設置場所や形状で影響が変わってくるのか、工法の工夫で改善の余地があるのか、費用対効果はどうなのか、というあたりについて今後検証と研究がなされるのでしょう。

建築の先生が言っていたのですが、建物も同様で、今回の震災で耐震基準を満たしている建物が地震の揺れによって倒壊したものは(おそらく)なかったということも、けっこう大事なポイントだと思います。


とはいいながら、この後、いろいろなところで津波の力の大きさに圧倒されることになるのですが・・・



※ 関連エントリはこちらから被災地に行ってきました。
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