『寺院消滅』の続編。
今回は葬儀と墓に焦点を当て、少子高齢化の中での孤独死や厄介者扱いされる遺骨の問題、また、最近の新しい葬儀や墓の姿とそれにとまどいつつ試行錯誤する寺院を描いている。(ハイテク納骨堂の固定資産税課税問題(参照)などについても触れられてる)
前著とも通じることだが、寺院が「葬式仏教」と化し、死と向き合うことに対して頼るべき存在でなくなっているというところが根源にある。
「葬式仏教」の寺院が葬儀の変質で消滅の危機にあるのか、寺院の求心力の喪失が葬儀の在り方に影響を与えているのか、これはニワトリと卵の関係なのだろう。
本書では僧侶の国際ボランティア団体の創設者の言を引いている。
・・・ところが、江戸時代は、お寺の機能が檀家との関係に縛り付けられて、活力をそがれていったのです。さらに、近代とくに現代になって都市集中や都市化が起きたり、<遅延共同体>というのが壊れてきます。それと同時に、寺というものが機能を果たせなくなったのです。
でも、こうなったのは、お坊さん自身が、僧侶である以前に、一人の人間としての市民意識を持っていなかったからなのです。そのために安住した共同体の崩壊と一緒に役割を見失ってしまったのです。お寺をどうするか、仏教をどうするかということはどっちだっていいのです。永遠に続くものは、この世の中には一つもないというのが、お釈迦さんの教えなのです。とすると、仏教も世の中に役立たない、存在意義を失っているとするならば、無常の流れの中で消えていくのはきわめて当然でしょう。
大事なのは、宗教者の一人一人が時代の苦悩というものを、自分の課題としてどう受け止めるのか。それが問われているのだと思います。
この考えを極端にすすめて、もはや寺院には期待できないと考ええるのが『0(ゼロ)葬--あっさり死ぬ』のスタンスになろう。
一方で著者は(寺の出身ということもあってか)一縷の希望を持っているように思える。
鎌倉新書(注:葬儀、仏壇、お墓のポータルサイト運営会社、マザーズ上場!)の総裁担当者は、「それでも葬式と仏教(寺院)が切り離されることはないと思います」と指摘する。同社によれば、現在、葬儀の九割が仏式、あとは神式やキリスト教式で、無宗教式はまだわずかだという。
「死に対する説明ができるのは、宗教家だけです。遺族としっかり向き合い、感動する葬式をお坊さんが取り仕切れば、結果的に寺と葬儀社の両方の評価が上がります。逆に、お坊さんがいい加減だと、業者の責任にもなり、顧客離れにつながっていきます」(同社)
死は逃れようがないが、僧侶が死の意味を説くことができれば、寺院も仏具店も葬儀社もきっと蘇る。1500年、日本仏教の歴史とともに歩んできたモノづくりやサービスの現場にも活力が生まれる。ひいては地縁の回復にもつながる。
最後は贔屓の引き倒し風ではあるが、それに代わるも何かが登場するまでに寺院自体も変わらなければ、本当に消滅の道を歩むことになろう。